写真・文/土井敏秀=男鹿市(講演・トークセッションの記録:田口良実、内川萌花)】哲学者・内山節さんの講演「地方に向かう流れを読み解く」をメインとしたイベント「男鹿半島で過ごす2日間 ここで生きる」が9月2、3日の両日、男鹿市内の2会場で開かれた。内山さんの講演のほかに、秋田県内への移住者(Uターン、Iターン)や、地元の受け入れ側の人も交えたトークセッション、レゲエバンドのライブ、地元・加茂青砂の海で獲れた魚介類を料理する「海の幸の宴」といった盛りだくさんの内容だった。

 始めに温泉旅館「ゆもと」で行われた内山さんの講演内容をお伝えする。




江戸時代の農山漁村にあった「自治」

男鹿市の温泉旅館「ゆもと」で開かれた、哲学者・内山節さんの講演会

 江戸時代の農村は、武士が城下町に暮らすようになったため、武士に管理されていても、直接入ってこない。年貢をめぐって農民は、脱税の工夫をしていた。隠し田(税を払わない田)を持ち、冬の麦作は非課税で、生活の足しにしていた。農民はいろんな仕事をしていたので、冬場には新潟や山形などから、大工として江戸に出稼ぎに出て、家を建てた。その収入も非課税。厳しくすると、一揆がおこり、それが広がる恐れがあるから、武士も見て見ぬふりをしたのです。

 一揆は幕府に禁止され、首謀者は死罪と決まっている。庄屋などが死罪となると、神社に祭られ、語り継がれる。武士にとっても、それは嫌だ。江戸中期になると、首謀者が天狗、天狗に言われたから、という「説」がはやった。武士もそれを認め、天狗狩りをしたうえで「他国へ逃亡済み」と結論付けた。首謀者が80歳を越えたおばあさんもおり、これは死罪の判決を出すが、80歳以上は殺していけない、とされており、執行されず息子に下げ渡された。江戸時代の農山漁村の自治は、うまくいっていた。「たわけ者」の語源は「田分け」。長男のほかに田を分け与えると、共倒れになってしまうからです。次男以降は出て行かざるを得ないのですが。

 私は東京と群馬県上野村を、行ったり来たりしています。上野村は律令制のころ(奈良時代)に登録された部落そのままです。明治時代に入って人口が千人ほどおり、以来、一度も合併していない。独立心が強い。現在は約1300人。そのうち移住者(Iターン)が260人です。水田が一枚もない山村ですが、太平洋側の気候で、雪があまり降らず、暮らしやすいので、人が残ったのでしょう。今も婚姻率、出生率が群馬県内一。出生率は2.2人(東京は1.4人)です。地元の小学生に聞くと、上野村に住みたい子が100㌫。昼間、表で働いている人は、ほとんどがIターン、役場や農協もIターン組が多い。移住者がいないと村が成り立たない、わけです。

 フランスも社会の近代化で、一次産業、自然離れで人口が都市部に集中しました。それが、1975年ごろから逆流が始まった。現在の農山村の最低でも人口の半分、多いところだと、3分の2が都会からの移住者。自然、一次産業に触れていたいという人たちが増えたからです。農山漁村は100年、200年の周期で変化します。違う視点から、農村の価値を見いだすのです。

地方が「フロンティア」になる時代

講演会には地元住民ら多くの参加者が訪れた(撮影:伊藤晴樹)

 では、都会はどうなのか。日本だけでなく、現在の社会を支配している資本主義の問題点は、国、企業が作った「システム」に人間が従属していることです。ブラック企業で正規雇用が増えているのは、サービス残業ができるからです。年金制度もそうです。依存していれば、現状維持が好ましくなってしまう。そのシステムが壊れたら? 2011年の3.11で経験したことです。年金制度がなくなったら? 日銀が潰れたら? なので「自分たちの暮らしを自分たちで」という考え方が潜在的にあります。だけど、東京生まれ、東京育ちには農作業等の経験がない、イメージがわかない、簡単には動けない。それでも、決まったシステムに従属する生き方でいいのか、人間としての生き方ができているのか、という疑問を持っている。東京では新しいことができにくい。例えば、文京区の8畳1ルームの部屋を借りると、月で8万から10万円かかり、車を持てば駐車場代が1台で4万2千円する。合わせて15万円ほどになる。経費が掛かり過ぎて、やりたいことを実現するのが遠ざかってしまう。

 そう考えると「地方がフロンティア」になる。地方の方が少ない金額で「何か」をできる。徳島県神山町には、オンデマンドで映像配信する仕事など、移り住んで起業する若者が増えている。古民家と、どこでもできるIT産業の組み合わせです。経費が安いうえに良い環境で仕事ができる。古民家の縁側は「人が集える場」になり、地元の人との付き合いが生まれる。野菜を作ったりして、自分で自分の暮らしをデザインできる。地元の人と一緒にカフェやレストランを経営する人も出てくる。「自分で作る世界がない」と疑問を持つ人たちが移ってきて、暮らしているのです。




人や自然との関係の中に「いのちの場所」がある

 「いのちの場所」は、ひとりひとりの個体にある訳ではないのではないか。上野村のお年寄りが「木(この景色)の中に、自分の生きてきたすべてがある」と話すのは、畑、家、森との関係の中に、自分が生きる世界が集約されているからだと思う。「私は今、どんな景色の中に生きているのか? 自分とそれとの関係はあるのだろうか?」と問いかけてみる。都市部だと、何の関係もないものが周りに、たくさんある。「この景色の中に自分が生きているものがある」とは言いにくい環境です。自分の命は自分のものという錯覚は、認識そのものを、忘れているから出てくる。たとえば、人間はスズメバチを敵だとみる。スズメバチだって人間を敵だとみている。それが「認識」です。ものごとの認識は、関係の中にしか発生しない。結び合いの中でうまれる。相互の視線がぶつかるところで、相手が投げかけるものがあってこそ、成り立つ。それを忘れるから、国民としてまとめられた、国家が人間を管理するシステムに、依存せざるを得なくなってくる。

 人や自然との関係の中に「いのちの場所」があるのです。かつては、地域、社会、歴史、文化、労働、信仰(これは今の宗教と違い、暮らしの中に自然にあるもの、使う水の中に水の神がいるとか、そこに住む人を『なんとなく守ってくれるもの』)、まつりなどとつながりがあった。それが近代以降、つながりがばらばらとなり、経済の肥大化、文化や歴史の破壊、暴走につながってきた。そこを脱出しようという人たちが「自分たちで仕事を作り、暮らし」を作るため、地方がそのフロンティアになっている、と思います。それがブームとなってくると、田舎暮らしをしたいだけの人が出てきます。自治体とかがサポートしすぎると、安易に移住するケースが多くなってきます。それで神山町や上野村では、企画力がある人を集める方向へ、シフトしています。地域に入って行ける人、自分で創造工夫ができる人を求めています。

 かつて日本は、農山漁村人口が8割を占めていました。今は、その逆で都市人口が8割です。コミュニティの形成、自然との共存という「伝統回帰」は、現代社会のやり方ですすめないといけない。山村の上野村は、豊富な森林資源でエネルギーに薪を使っていました。今はチップにし、さらにペレットに加工して発電機を動かし、地域のエネルギーに利用しています。機械はコンピューター制御なので、都会からの移住者が職員となって担当しています。森林資源はペレットのエネルギーで地域の暖房を賄うだけでなく、木工品作り、キノコ栽培などと、活用の場を広げ、雇用の創出にもつながっています。これからの農山漁村は、地元のものを大事にしながら、どう変化していくかのデザイン力が大切になります。

 世界中を見ても、政治は力を失っています。国に頼らず生きていこうとする人が増えています。中国の若者たちの中には、国家があと数年で崩壊すると考え、自分たちで生きていけるように、具体的な動きが広がってきているのです。

参加者それぞれが秋田での「生き方」見つめる

トークセッション

 続いてアドバイザーに内山さんを迎えてのトークセッション「私たちの生き方」。まずは参加メンバーを紹介する。

 進行役の菊地晃生さんは、ファームガーデンたそがれの園主(潟上市)。菊地さんは農業をするため、実家に帰った。不耕起栽培米、野菜類を育て、収穫するだけでなく、その加工品も作っているほか、子供も大人も自然に学び合う「地球人」を目指す場所作りの活動も行っている。パネリストは畠山富勝さん(農業、男鹿市)、遠山桂太郎さん(農的写真家、秋田市河辺・芸術の里かわべゆうわ)、木村友治さん(北風農園園主、八峰町手這坂)、石川雅子さん(漁師の妻、3児の母、男鹿市)の4人。

 畠山さんは「自給自足の暮らしを目指す若者を迎え入れたい」との思いから、高齢化で稲作を辞めた人たちの田んぼを集めて管理し、すぐに使える農機具も多く準備している。遠山さんはプロのカメラマンだが、東京で東日本大震災を体験、金があっても何も買えない暮らしを見て、「お金に頼らず、生きていくにはどうしたらいいか」を実践するために秋田に移住した。仙台市出身の木村さんは、海外青年協力隊員としてパラグアイに行き、「人々が自分で生きている」姿に触れ、衣食住をゼロから学べる場所を探して、現在の、12年間無人だった茅葺き屋根の古民家集落の地にたどり着き、5年目に入る。石川さんは小型船舶操縦免許を持ち、ボンベを背負っての潜水の資格を持つ。子供のころから農的生活に親しみ、都市部での生活に疑問を抱いていた。「物々交換」みたいな生活に、山と海がつながっている、と実感する。

遠山さん(以下 遠) お金仕事で生きるのはどうなのか?どこで暮らしたら自分の生活ができるのか?を考えて4年前、秋田市の芸術の里プロジェクトを選んだ。来た当日からまちの人たちの大歓迎を受け、子供たち2人もすぐ順応した。1年目はお茶を飲み、酒を酌み交わして、まちに来た目的を、地域のみんなに伝えた。今は集落の役員も務め、近くの国際教養大学の学生との交流も図っている。若者が地域の文化を知りながら、新しいものを見つけられるよう、まちの未来をまちのみんなと一緒に、考えていきたい。

木村さん(以下 木) 手這坂とは旅の途中で出会い、居住することになった。初めは「自分だけの楽園を築くんだ」とか「無人集落を建て直すんだ」と意気込んでいたが難しく、3、4年では生活向上もうまくいかなかった。ここに来て知り合った、周りの人たちの協力を得て、NPO法人「ミチのクニ手這坂」を作った。築160年以上の茅葺き屋根の家を少しずつ直しながら、不耕起、化成肥料使わない農業をしている。

石川さん(以下 石) 漁師の家に嫁いで8年。子育てしながら、保育サポーターの資格をとったので、男鹿でもできる子育ての環境をどう整えるか、みんなで考えていきたい。

畠山さん(以下 畠) (観光施設の)なまはげ館がある集落に暮らしている。地域のじさま、ばさまと話すのが好き。高齢者が亡くなっていくのは「資料館」が減っていくのと同じだと思う。みんな農業から離れてきた。農業を辞めた高齢者の機械を引き受け、新しい参入者に使ってもらいたい。

菊地さん(以下 菊) ここに集まった人たちは、一次産業中心の暮らしをしています。上野村ではどんな農業が行われていますか。

内山さん(以下 内) 以前は農村に来ることは、農業収入を得ることでした。現在は農業〝も〟ある生活で、農業がメインではない。IT業の人もITだけでなく、農のある暮らしをする。それが地元になじむことにつながる。農業は産業なのか? もともとは自分の生活を作るためのものだった。交換しながら生きることが、近代の市場に依存することにつながっていった。暮らしの中に農業がある、というのが伝統回帰。(野菜類を)自給するにはどれだけの土地が必要か。1人約30坪(30㌃)、自分の土地でなくとも構わない。日本中の人が1人30坪ぐらい持って生活すれば、みんな自給ができる。コメを1日3合食べるとすると、稲作に30坪、味噌醤油も作るとしたら、もう30坪。1人が合わせて90坪持つと、農政転換になるのではないか。社会としては向かっていないが、人々は農的生活に向かっていると思います。

(菊) 農業の問題は、若者が減少して担い手がいなくなったことです。ほかの仕事をして、農的生活をする人が増えたらいいですよね。

(遠) 東京での生活って、あの地震の時ですが、お金があっても何も買えなかった。週末、キャンプに行くように火起こしもできない。お金に頼らずに生きていくのは、どうしたらいいか。それでここに来て「迷惑をかけて、生きることの何が悪いのか」と開き直って、まちの人たちにコメや野菜をもらいながら生活し、まちの人たちと何か新しいものを「つなぐ」「ゆかり」が大切な環境を整えていきたい。燻りガッコやキリタンポつくりを子供たちに体験させられたし、収入は東京の5分の1だけれど、幸せは何倍にもなっている。秋田に来たばかりのころ、県の農業研修で、県職員から「大規模農家になってほしい」と言われましたが、友人になった地域の人たちに、それはやめた方がいい、といわれました。即やめました。今はヤマメの養殖もバトンタッチしています。

(木) ここで茅葺きの作り方を学び、廃村になった地域を建て直すことに意味があるのではないか、残されているものを生かしながら、そう考えて家を直しています。

(石) 傷があって売れない魚を近所のおばあさんたちにあげると、野菜をもらって。みんなで助け合いながら生活しているんだなあ、と思います。子供たちは近所のばさまたちに育ててもらっています。

(畠) 遠山さんや木村さんがやっていることは、私たちが今までやってきたことと同じです。でも、それを発信する発想が足りなかった。自給の知恵は農耕民族が代々、伝えてきた。それは過酷な労働だった。耕すのが大変で、人も牛も馬も疲れ果てた。民謡は、農民の生活の難儀を表現しています。農機具類には農民の血と汗と涙が詰まっており、農民はそこに希望を見いだしていた。農業の大切さがそこにあるのだが、近代化で食べ物が余るようになり、食管法や減反政策で、黙っていてもコメは売れるという考えが、農家にも広まってしまった。私は苦しいけれど、生きがいを感じることができる「農耕民族」で生きていきたい。

(遠) 子供たちが自然から学べるまちって、若者が地域の資源を見つけ、それで新しく、楽しい暮らしを発掘できるまちではないか。そんな暮らしを実践していきたい。

(畠) それには、「なまはげ」がふさわしい。幼子の家に最初、なまはげが来たとき、父親は抱きかかえて守ってくれる。少し大きくなると、きょうだい同士で守り合う。なまはげに扮することができる青年になると、地域の一人前の存在になったことが誇らしい。面をかぶり、大人を「酒飲みすぎてねえが」と説教もできる。

(内) 日本は家業という仕組みが続いてきた。長男は家を継ぐので学校に行かない。継げない次男三男はせめて学校へ、の構図があった。それが今、継ぐのが有利、という構図が崩れてしまった。家の跡取りがいないなら、「Iターンする」若者を受け入れざるを得ない。

男鹿・加茂青砂の海の幸楽しむイベントも

 このイベントの翌日は、温泉旅館「ゆもと」から車で20分ほどかかる「加茂青砂ふるさと学習施設」(旧加茂青砂小学校)に会場を移した。秋田県三種町にある松庵寺の副住職が率いるレゲエバンド「英心&ザ・メディティショナリーズ」のライブがその会場で開かれ、「♪ニィボン、ニィボン……♪」というフレーズが、会場を訪れた人たちの耳に残り続けた。

 ライブの後の会場では、ここ加茂青砂の海で朝、水揚げされたばかりのヒラメの刺身、ほかにクロソイ、カジカなどの魚を使った味噌汁、ええい、カニ汁はどうだ! 目の前の海で取った海藻を干して、海にさらす―を何度も繰り返し脱色した天草、エゴクサを素材に作ったトコロテン、エゴもどうだ! 訪れた人たちは大いに満足げだった。

「加茂青砂ふるさと学習施設」で開かれた「海の幸の宴」。カニをストロー代わりにする子供も。
「加茂青砂ふるさと学習施設」で開かれたレゲエバンド「英心&ザ・メディティショナリーズ」のライブ




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