宮城県石巻市の釜谷地区を知っていますか?(1)悲劇と懐かしいふるさとのはざまで

スマホで360°VR動画を体験 ※必ずYouTubeアプリを起動してご覧下さい

住民の4割近くが犠牲に、集団移転へ 

 石巻市立大川小学校を知らない人はいないでしょう。大川小では、東日本大震災の津波で児童74人と教職員10人が犠牲になりました。この悲劇に誰もが胸を痛めました。この地を訪れ、犠牲になった生徒や住民の名前を刻んだ慰霊碑、津波に直撃された校舎に手を合わせる人は今も絶えません。バスやタクシーで被災地視察に訪れる人も多くいます。

 その大川小があった場所、北上川の河口から約4キロ遡ったところが石巻市釜谷地区です。今では小学校の校舎を残すだけで、周囲にあった住居や人々の生活の痕跡をうかがい知ることはできません。震災前まで校舎の両脇には家が建ち並び、地区には約130世帯の500人近くが暮らしていました。小学校の向かい側は現在、来訪者の駐車場所になっていますが、そこも家々が軒を連ねていました。

しかし、津波によって、この地区だけで児童も含め193人が犠牲になりました。住民は集団移転することを決め、釜谷は人が住まない土地になったのです。

住民の手元に残った写真が伝える釜谷の姿

CIMG2436 2 津波は、そこに生きた人たちとともに、写真や大切な思い出を刻んだ品々も押し流しました。かつての釜谷の姿を伝える物は、ほとんどありません。ところが、2015年12月末、仙台の出版社・荒蝦夷が刊行した「石巻学」の創刊号に、釜谷の年中行事を撮っていた写真家の作品が掲載され、住民たちを懐かしがらせました。

一方で、住民の手元にもごくわずかですが、平穏な集落の営みを伝える写真が残っていたのです。今回、許可を得て、その写真を掲載することができました。

写真は1987年に大川小の前を通り釜谷を東西に貫くメーンストリートを撮ったものです。写真でははっきりしませんが、大川小は右奥の方向に位置しています。撮影したのは、先祖代々釜谷に住み、津波で大川小に通う孫2人と娘婿を亡くした阿部良助さん(68)の親戚です。この親戚は東京に住んでいたため、写真の流失を免れました。

写真からは、のんびりとした時間が流れる集落の様子がうかがえます。一緒に掲載した動画は、写真の撮影地点に近い場所から写した現在の状況です。荒涼とした土地が広がり、そうと言われなければ、人々の営みがあったことを想像できません。

◆「悲しいだけの土地にしたくない」思い

 私は震災後、取材のために釜谷を訪れるようになりました。ある日、家族を亡くした住民の一人がふと漏らした言葉が胸に残りました。「小学校には、みんな手を合わせてくれる。でも、ふるさとは跡形もない。学校のまわりに人が住んでいて、笑ったり泣いたり、日常の生活があったことに思いをはせてくれる人はどのくらいいるのだろう」。

大川小の悲劇の地となった釜谷。多くの住民とふるさとも失われました。同時に、そこは人々の喜怒哀楽を刻んだ思い出深い土地でもあったのです。津波で亡くなった家族や子どもたちとの楽しい思い出がたくさん詰まっている。だからこそ、悲劇だけの土地にしたくない。

悲しみとふるさとを懐かしむ気持ちの間で住民は揺れています。震災から5年目の釜谷の姿を5回にわけて伝えます。

【360度VR動画ニュース】

(取材・文/平間真太郎、ナレーション/山田恵介)




Leave a Comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です