石巻市釜谷地区を知っていますか?(2)大川小を見守る花壇はなぜ造られた?

 大川小学校があった石巻市釜谷地区。大川小の裏手には、ちょうど北上川と向かい合うようにして小高い山が連なっています。その山際の一角に花壇があるのをご存知でしょうか?花壇は震災後に住民らの手によって造られました。山を背にしてあまり日当たりはよくない場所ですが、校舎を見守るようにひっそりと春を待っています。そこには住民の痛切な思いが込められていました。(平間真太郎)

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山際にひっそりとある花壇

三陸自動車道の河北インターから北上川沿いの道を河口に向かって車で10キロほど走ると、釜谷地区が見えてきます。地区の入り口に立ってすぐ右手の山際に、その花壇はあります。数十センチ盛り土した幅1・5メートルほどの帯が、校舎に向かって100メートル近く延びています。まだ寒さが残る3月中旬ですから、大部分は黒々とした土が連なっているだけです。

最も校舎に近い幅20~30センチの花壇には、ごく最近植えられたと思われる花々が黄色や赤、橙などの花びらを風に揺らめかせています。地区の入り口付近の日当たりのよい場所では、スイセンやチューリップの芽が出始め、春が近づいているのを知らせてくれています。

しかし、大川小を訪れる人たちに、この花壇が意識されることはあまりないようです。校舎や慰霊碑から少し離れた場所にあり、訪問者の動線から外れているので無理もないことでしょう。では、なぜこの場所に花壇が造られなければならなかったのか。

「泥の中から子や孫を…」地獄の捜索活動

大川小を見守る花壇
住民が造った、大川小を見守る花壇

花壇がある山際は、大川小の子どもたちや住民の多くの遺体が見つかった場所の一つです。新北上大橋近くの交差点、「三角地帯」と呼ばれている場所をめざした子どもたちが、堤防を越えてきた津波に押し流されたためと思われます。直後に釜谷をめざした住民によると、泥や流木に混ざって、手や足が突き出ているのが遠目にもわかったそうです。

震災から2日後の3月13日から、住民による捜索が始まりました。そこから3カ月近く、住民と地元消防団や自衛隊などとの懸命の捜索活動が続くことになります。遺体を傷つけないように、丁寧に泥や流木をよけながら、人を見つけたら目印を置き、カバンなど身の回り品があれば三角地帯に持っていく。三角地帯には6~7人の住民が残り、川の水をバケツでくみ上げ、泥の中から引き上げた遺体の顔をきれいに洗いました。

見つかるのは、我が子や孫、家族、近所の人など、みな身近な人たちです。住民は涙を流しながら捜索を続けました。ある住民は当時を振り返って「生き残った者にとっても地獄だった」と語っています。こうして4月末までの1カ月半に、142人の遺体が確認されました。

「遺体の発見場所を踏まれたくない」悲痛な思い

花壇は震災から1年ほど経った頃、この場所で小学4年生の孫を見つけ、自らの手で引き上げた男性が造り始めました。男性はその理由を「子どもたちの遺体が見つかった場所を、人の足で踏まれたくなかったから」と打ち明けました。

震災後、大川小には多くの人が訪れるようになりました。週末や休日には、校舎の周囲に人や車があふれることもあります。ただ、そこは多くの遺体が見つかった場所であり、津波で失われた家々が建っていた場所でもあるわけです。

住民たちのそんな思いがこもった花壇は、花々が咲き誇る季節を待ちながら、校舎を静かに見守っています。

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(取材・文/平間真太郎、ナレーション/山田恵介)

【第1回】悲劇と懐かしいふるさとのはざまで



One Comment

  1. 三篠

    大川小学校の事は度々、耳にしていましたが花壇の事は初めて知りました。見つかったこの場所を人の足に踏まれたくない…この言葉にハッとさせられました。正直、意識が低かったかもしれない。津波の被害に遭った地域をこの足で歩くけれど、その時に立っているその場所は誰かの命が絶たれた場所であるかもしれないという事を、今一度、心に刻みなおしたいと思います。大川小を見守る花壇に色とりどりの綺麗な花が咲き誇りますように。

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