靴下と箒で野球していた少年が、日本プロ野球監督に。「ラミレス監督」という生き方

[PR記事]  通算2千本安打を達成した頼もしい打撃力と、誰にでも愛される気さくなキャラクターで、日本のプロ野球選手として名を残したアレックス・ラミレスさん(43)。その活躍は選手時代にとどまらず、2016年からは横浜DeNAベイスターズの監督に就任、チームを牽引する存在になった。祖国はベネズエラ。アメリカのメジャーリーグを経て、日本に活躍の場を移したラミレスさん。異なる環境で強さを発揮してきた背景には、どんな人生経験や精神力が秘められているのだろうか。知られざるラミレスさんのライフヒストリーに迫った。

貧しい環境から抜け出すための、「野球」という道

ラミレスさんが生まれ育ったのは、南米ベネズエラの人口200人という小さな町。決して裕福な環境とはいえず、野球道具はおろか、水や電気も満足に使えなかった。

 「牛乳パックでグローブを作って、ほうきをバット代わりにして、靴下を丸めてボールにして。ベネズエラではみんな、そうやって野球をしていたよ。ラテン系の選手たちはボールのキャッチがうまい、と言われたことがあるけど、なんせ僕たちは牛乳パックで訓練しているからね(笑)」

ベネズエラでは、そんな貧しい環境から抜け出す道が、「野球」だった。「家族を養うためには『進学』か『野球』か、どちらかを選択しなければいけなかった。そして僕は、『野球』を選んだ」

東京都内でインタビューに応じてくれたアレックス・ラミレスさん

「お金を稼いで1年で帰ろう」と思っていた日本が「自分にとって一番の場所」に

1991年に渡米。マイナーリーグを経て、メジャーリーグ選手として活躍。移籍先を探していたところに、日本のヤクルトスワローズからのスカウトがあった。

 「来日したのは、初めはお金を稼ぐことが目的だったんだ。1年間日本でプレーしたら、アメリカに戻ってまたプレーするつもりだった。でも、日本で暮らすうち、日本が自分にとって一番の場所だと気づいた。規律正しく、人々は親切で勤勉で、公平な教育の機会がある。自分の国とは違う、そんなところをとても尊敬したよ。あと1年、あと2年…と日本にい続けて、ついに僕はエージェントに『もうアメリカには戻らず、できるだけ長く日本にいたい』と伝えたんだ」

チャーミングな笑顔で多くのファンに愛されるラミレスさん

「日本の野球」を教えてくれた古田敦也捕手

一方で来日後に苦労したのは、ベネズエラでも、アメリカでもない「日本の野球」を知ることだった。ゲーム序盤からバントを使うなど、アメリカではブーイングされるようなプレーが、日本では当然の戦略として多用される。「僕は日本人の選手たちよりも “日本の野球”がどのようなものなのかを勉強しなければならなかった。とにかく、勉強したよ」

ある日、「日本の野球」がたちまち分かるようになった瞬間があった。そのきっかけは、球界の名捕手として名を馳せた古田敦也さんだった。

 「古田さんからのアドバイスが、僕の日本での野球人生の一番のできごとだった。ある日、僕が古田さんに『新人投手もベテラン投手もともに力を発揮できているのはなぜなんだ?』と聞いたら、古田さんは『日本では捕手が試合をコントロールしているんだよ』と教えてくれた。つまり日本では捕手がサインを出し、投手がその通りに投げていたんだ。ああ、そうだったのか!と気づいたのが、僕の野球人生でのターニングポイント。それからはより『日本の野球』が理解できるようになったし、ヒットを打てるようになった。『捕手』をものすごく研究するようにもなったよ」

試合に向けた戦略を練ることは毎日欠かさない

「僕はベネズエラでもアメリカでもない、“日本の野球”を熟知している」

持ち前の勉強熱心さとコミュニケーション能力で日本の環境に馴染み、成績を上げていったラミレスさん。ヤクルトから巨人に移籍し、徐々に「監督になりたい」という夢、そして「なれる」という手応えを感じていったという。

 「外国人選手が監督になったケースは珍しいから、周りの人には僕が監督になれるチャンスはないと思われていたんだ。でも、僕は日本の野球を熟知しているから、なれる、と思っていた。僕はアメリカの野球より、ベネズエラの野球より、『日本の野球』を知っていた。だから、日本で監督になろうと思った。もちろん、決して簡単な道ではなかったよ」

監督としての「重圧」と、克服するための「睡眠」

日本で監督になる、という自身の目標に向けて地道に努力を重ね、「自分が思い描いていたストーリー通りに」2016年、横浜の監督に就任。監督としての手腕に注目が集まる中、初年にはクライマックスシリーズのファイナルステージ進出へ、そして二年目となる昨年には日本シリーズ進出へとチームを導いた。

 「とにかく、日々勉強だね。今は僕自身だけじゃなくて、25人、40人、70人…と大勢の選手たちのために勉強する必要がある。自分のチームの戦略ももちろん、相手チームの戦略も研究しなきゃならない。とてもストレスが溜まるけれど、去年一生懸命勉強したことが、僕にとって大きな自信になっているよ」

監督としての重圧と責務を負う毎日。日々頭を働かせ、毎試合に向けた戦略を考えなければならない。そんな生活の中で重視しているのは「睡眠の質」だという。10年前から「心地よく熟睡できる」と愛用しているのは、イタリア・マニフレックス製の枕とマットレス。「毎日7、8時間ぐっすり睡眠を取る。監督になってから毎日考えることが多くなったけど、頭を冴え渡らせ、よりよいゲーム戦略を考えるためは必需品になっているね」

ラミレスさんが「これなしでは眠れない」という、10年愛用するマニフレックス製の枕

貧しい子供たちへ支援をしていきたい。そして自身の夢は「GM」になること

貧しい環境の中から抜け出してスターになった自身の経験から、慈善事業にも熱心に取り組んでいる。東日本大震災の際には被災地に100万ドル(約8000万円)の個人寄付をしたと報じられ、プライベートで宮城県石巻市を数回にわたり訪問。継続的な募金活動も行った。

 「僕はこれまで日本のたくさんの方々にお世話になってきた。その恩返しをしたい、日本のために何かしたいと思って、寄付をしたり、石巻を訪れたりしたんだ」

祖国ベネズエラでは、貧しい家庭の子供でも通える「ベースボールアカデミー」を建てたこともある。「才能あるたくさんの子どもたちが、支援を必要としている。野球を教えるチャリティーもしていきたいし、貧しい子どもが誤った方向へ行かないような、そんな精神的な教育もしていきたい。日本でも、野球選手を目指す子どもたちがどんどん減っている。もっとたくさんの子どもたちが野球を愛してくれるよう、何かできればと思っているよ」

選手、監督として日本で活躍するラミレスさん。その夢はまだ終わらない。

 「監督としての目標はもちろん、セントラル・リーグで優勝し、日本シリーズでも優勝して日本一になること。でも将来的な夢としては、私自身もっとステップアップしたいと思っている。今は監督としてチームをマネジメントする立場だけど、将来はGMになって、組織全体をまとめ、よりよくしていくことにも興味があるんだ。『組織全体でNo.1』を目指してみたいんだ」

ラミレスさんと、マニフレックスを販売するフラグスポート社の山根社長は大の仲良し
10年前からマニフレックスを愛用しているラミレスさんは今年、熟睡寝具ブランド「マニフレックス」の魅力を伝える公式アドバイザーに就任しました。イタリア・フィレンツェで生まれたマニフレックスは海を渡って25年前から日本でも販売され、多くの人々に幅広く愛されるブランドに。東日本大震災の発生時には、被災した方々が少しでも快適に眠れるよう、イタリアからマットレスを緊急輸入し、避難所へのマットレスの支援活動も行いました。

遠くの国から日本へ渡り、確かな実力と信頼される人柄で多くの人々に愛されるラミレスさんの姿は、マニフレックスのこれまでの歴史と重なるかのようです。マニフレックスは、これからもアレックス・ラミレスさんを応援しています。

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