【東北異景】悲劇の地に佇む螺旋の迷宮 会津さざえ堂

写真企画「東北異景」第6回 悲劇の地に佇む螺旋の迷宮 会津さざえ堂(福島県会津若松市)

【写真・文:佐瀬雅行=写真家】久しぶりに会津若松を訪ねたのは3月下旬。まだ、会津盆地に春の気配は感じられない。雪交じりの寒風が吹きつける飯盛山、白虎隊の墓所から少し下った中腹に異形の塔があった。

斜めの庇や窓がピサの斜塔を連想させる「会津さざえ堂」。サザエの殻に似た外観から名付けられた。六角三層の仏堂で、高さは約16・5㍍、直径約6・3㍍。かつてこの地にあった正宗寺の住職、郁堂が寛政8(1796)年に建立したと伝えられる。

白虎隊が自刃した飯盛山は有数の観光スポットとなっており、修学旅行で訪れる小中学生も多い。隊士の霊が眠る墓所のすぐ下にさざえ堂が立っている
斜めに傾いた庇屋根と窓の組み合わせは、見る者の不安感を掻き立てる。

さざえ堂は外観だけでなく、内部も不思議な造りになっている。唐破風の向拝から堂内に入ると、右回りに上る螺旋状のスロープが伸びている。板張りの床には滑り止めの桟が付いているが、勾配が急な上に微妙に内側に傾いていて平衡感覚を失いそうだ。中央に立つ6本の心柱に沿ってゆっくりと上っていく。1回転半で六角形の天井と太鼓橋がある最上部にたどり着いた。

堂内に入ると正面に郁堂の木像が安置され、上りの回廊が右回りに伸びる。
傾斜したスロープにバランスを失いそうになる。天井は下りの床になっている。
巻貝の殻の内部を思わせる螺旋状の回廊。中心の厨子には、かつて三十三観音が祀られていた。
中央に並ぶ心柱の隙間を下りの人影がよぎった。
最上部の天井は無数の千社札で埋め尽くされていた。

ここが転換点で、太鼓橋を渡ると下りは左回りのスロープになる。上りと下りの通路は二重螺旋構造で分かれており、他の参拝客とすれ違うことはない。天井を踏む足音やかすかな話し声とともに心柱の間から一瞬、人影が見えた気がした。下りも1回転半で出口に達する。堂内をわずか3回転しただけなのに、迷宮をさまよった錯覚に陥ったのは二重螺旋の魔法だろうか。

太鼓橋を渡ると回廊は反転し、左回りに下っていく。

会津さざえ堂の正式名称は「円通三匝堂」。三匝堂(通称さざえ堂)は江戸時代後期に造られた特異な建築様式の仏堂で、三匝は堂内を3回「匝る」ことを意味する。螺旋構造の回廊に沿って三十三観音や百観音などが安置され、右回りに進むだけで簡単に参拝することができる。会津さざえ堂でも心柱に設けられた厨子に西国札所の三十三観音像が祀られていた。遠い西国まで巡礼に行くことが叶わない庶民にとって、さざえ堂は身近な信仰の対象であり、テーマパーク的な存在だったのかもしれない。さざえ堂は他にも幾つか現存するが、二重螺旋構造は円通三匝堂だけであり、平成7(1995)年に国の重要文化財に指定された。

二重螺旋の建築物としては、フランス・ロワール地方の世界遺産「シャンボール城」にあるレオナルド・ダ・ヴィンチ設計という階段が知られている。この絵図が蘭書に掲載され、長崎から会津まで伝わったという説もあるが真偽は定かではない。郁堂が独自に考案したものか、あるいは蘭書を参考にしたとしても、江戸時代にこれだけの奇想天外な木造建築を完成させた技術力は相当なものだったろう。

墓所に近い展望台から見下ろすと、さざえ堂の複雑な構造が分かりやすい。木羽葺きの屋根は銅板葺きに替えられている。

戊辰戦争の戦火を免れた会津さざえ堂だが、明治初期の廃仏毀釈で正宗寺が廃寺となり、個人所有に変わった。三十三観音も他所に移され、「皇朝二十四孝」の額絵が代わりに置かれている。白虎隊の悲劇の地を守るように、さざえ堂は今もひっそりと立っている。

自刃した場所に鶴ヶ城を望むように置かれた白虎隊の石像。新政府軍との戦いに敗れ、ようやく飯盛山にたどり着いた少年たちの目にさざえ堂はどのように映ったのだろう。
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