【震災とイエ】放火された自宅の跡地で

2015年10月9日夜、海辺にたたずむ一軒の小屋が全焼した。警察による現場検証の結果、何者かが小屋に侵入し、ストーブの中にあった灯油を撒いて放火したとみられている。犯人はいまだ、捕まっていない。

3千人弱が暮らしていた荒浜地区。家の土台だけが残ったままになっていたが、最近撤去工事が進んでいる(12月8日撮影)

 事件があったのは、JR仙台駅から車で約30分の、太平洋に面した宮城県仙台市若林区荒浜。約5年前の東日本大震災で186人が犠牲となり、集落ごと津波にのまれた被災地だ。震災前は約750世帯、3千人弱の人々が暮らしていた集落だが、震災後は仙台市がこの場所での居住を禁じ、今ではこの場所に住む人はいない。家の土台がところどころに残るばかりで、そこに集落の歴史と生活があったことが嘘かのように、周囲一帯はまっさらな原野に戻りつつある。

 貴田喜一さん(70)は、そんな風景に抗うかのように震災後、津波で流された自宅の跡地に小屋を建てた。貴田さんによると、貴田さんの家系は約500年前に荒浜に入り、屋号に「殿(ド)」という文字が付く、歴史ある「本家」。先祖代々、この場所で生活を営んできた。

荒浜の「深沼海岸」は毎年夏、海水浴場として賑わった。震災後は海水浴が禁止され、海岸近くには震災前にあった「深沼」のバス停のレプリカが置かれている(12月8日撮影)

 荒浜は、自然の恵みが豊かな集落だった。街を流れる貞山運河ではシジミが採れ、仙台雑煮の出汁に欠かせないハゼも釣れた。松林ではさまざまな種類のキノコが採れて、松ぼっくりは小学校のダルマストーブの燃料にもなった。漁業が盛んで、浜辺にはまれにクジラが打ち上がることもあり、昔は命を無駄にしないようにと、住民たちで肉を分け合った。サラリーマン世帯の増加で、近年はそんな半農半漁の生活形態は薄くなってきてはいたが、農作物やお惣菜をおすそ分けをしたり、住民みんなで季節ごとの地域行事に参加したりする結束力は変わらなかった。

 2011年3月11日。荒浜を、「壁のような津波」が襲った。貴田さんは車で荒浜から避難したが、集落内の荒浜小学校の屋上に避難した住民も多くいた。貴田さんは話す。

「多くの人が、あの小学校の屋上で、地獄を見た。家がそのまま海に流されて、2階から手を振っている人がいるのが見えるのに、その家が、沈んでいく。そんな恐ろしい風景を見たのだから、みんな『こんな場所には二度と住みたくない』と言うようになったのです」

 あの日、大津波は、集落のすべてを飲み込んだ。仙台市は津波の危険から、2011年9月に荒浜での居住を原則禁止。荒浜の人々は市内各地の仮設住宅などに入居し、ばらばらの場所に住むことになった。多くの住民は、内陸に建設される災害公営住宅に集団で移転することが決まった。数百年の歴史を持つ「荒浜」という名の集落が、あの日のあの一瞬で、なくなったのだ。

 貴田さんは、先祖から何百年も脈々と続いてきた故郷の生活や文化が一瞬の震災で消えてしまうことに、そして自分を形作ってきたこの土地を離れることに耐えることができず、仮設住宅から荒浜へと通う日々を続けた。

震災当時、多くの住民が避難した荒浜小。津波の記憶を伝える「震災遺構」としての保存が決まっている

 貴田さんは2012年、「荒浜再生を願う会」を発足。その後自宅跡地に小屋を建て、「この場所に帰りたい」気持ちを表す象徴として、映画「幸福の黄色いハンカチ」にちなんだ黄色いハンカチを掲げた。月に一度は「蘇生活動」と称してその小屋を解放し、海岸清掃やイベント開催の拠点にして、参加者に食べ物を羽振りよく振る舞う荒浜の文化「お振る舞い」をした。元住民に、ときに家族にまで、「いつまでこんなことをするのか」と呆れられたことも少なくなかったが、「荒浜」という場所に漂う思い出や記憶、歴史の灯りを、途絶えさせたくなかった。

 荒浜から工芸品を売る新たな取り組みを始めようとしていた矢先、放火は起きた。10数枚が吊るされていた黄色いハンカチも、上2枚を残して焼失していた。「悔しい」。貴田さんは当時、そう一言だけつぶやいた。

貴田さんが自宅跡に建てたプレハブ小屋「里浜ロッジ」(上)。何者かの放火によって全焼した(下)

 12月13日。全焼した小屋の隣に、簡易なテントが張られていた。新調されてより濃さを増した10数枚の黄色が、浜風になびいていた。荒浜では震災を語り継ぐためのイベントが開かれ、元荒浜住民のお母さんたちが作るお雑煮の「お振る舞い」がされていた。元住民と若い世代とが交流し、その場所には再び笑い声が溢れていた。

 活動を始めた当初は、どうして故郷の地に住んではいけないのかと、行政と全面的に対立していた。しかし貴田さんは最近、それでは進まないことがあると悟り始めた、と話す。この日、貴田さんの元には仙台市の職員が訪れていた。前向きな対話ができた、と貴田さんは評価している。

焼けたハンカチは新調され、より濃さを増した黄色が風になびいていた(12月8日撮影)

 仙台市は荒浜小の校舎を、震災の記憶を語り継ぐ「震災遺構」として残すことを決めているが、荒浜全体の土地の用途は具体的には決まっていない。荒浜を、どのような場所として残していくか。何を残し、何を語り継いでいくべきなのか。市との対話が始まっている。貴田さんは話す。

 「ここには自然の宝がたくさんあるから。今は難しくても、いつか、元住民がこの場所を訪れたくなったときのために、荒浜を再生しておきたいのです。『荒浜』という地名を、将来まで残す。どこまでも、それを目標にやっていく」

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