【寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】また1軒、古い歴史を伝える家の解体の日が近づく。東京電力福島第一原発事故から3月で丸14年。高い放射線量から「帰還困難区域」とされた福島県浪江町津島地区では、避難中の住民約650人が原告団を結成。国と東電に地域の全面除染などを求めた「ふるさとを返せ裁判」控訴審(仙台高裁)のさなかだ。副団長の石井ひろみさんは裁判の行方とともに、津島に嫁いで以来の追憶尽きぬ、築150年のわが家との別れを傷む心で待つ。誇り高い姿で風雨に耐えながら、家族の避難が長引く間に動物に荒らされ、帰還を待たず春には解体の見込みだ。「ふるさとの証をこのまま消されたくない。津島を取り戻したい」と訴える。
住民こぞって「ふるさとを返せ」と訴え
阿武隈山地の標高約450メートルの山懐に広がる福島県浪江町津島地区。脇道ごとに立つ「帰還困難区域」の看板とバリケードを横目に、人の姿がない国道を走ると、いつも目に入る大きな古い家がある。堂々たる総二階の木造の母屋に、大きな瓦屋根が載っている。津島を取材で訪ねる度、雑草雑木やツタに深々と覆われた家々とともに、いつの間にか解体された後の更地も増えていく。ひときわ誇り高い外観で立ち続ける、その大きな古民家がどうなるのか、いつも気になっていた。

<津島地区は2011年3月11日の東日本大震災と原発事故の後、放射性物質拡散による高い放射線量から、立ち入り制限の厳しい帰還困難区域に指定された。全住民(450世帯、約1400人)が同県中通りなどに避難し無人状態に。国(環境省)は21年8月、帰還困難区域について「帰還の希望があれば、現地の家を無償解体し除染し、個別に避難指示を解除する」方針を出し、津島でも工事を進める。また旧役場支所のあった中心部など計153㌶を集中除染し、つしま活性化センターや公営住宅10棟、農地などを「復興再生拠点」として整備した。が、その面積は、東京・山手線の内側の1.5倍も広い同地区のわずか1・6%で、商業施設も学校も職場もないのが現状だ>
古民家の持ち主に、筆者は「津島原発訴訟」原告団(今野秀則団長)の人々の取材で出会うことができた。津島原発訴訟は15年9月、避難先の住民のうち約680人が国と東電を相手取り、津島地区を汚染した責任として全域除染による原状回復と、住民に危険を知らせぬまま高濃度被ばくさせた慰謝料などを求めて提訴した。「ふるさとを返せ裁判」と呼ばれ、福島地裁郡山支部での一審を経て、22年9月から仙台高裁で控訴審が続いており、避難先から大勢の住民が法廷に集う。その副団長が、避難先の福島市内で暮らす石井ひろみさん(75)だ。
動物に荒らされ朽ちる家を見つめて
『「先祖代々受け継がれて、今、自分の名義になっている財産は決して自分のものではない。次の世代に引き継ぐべきものを、自分の代で断ち切っていいのか」。石井家の18代目に当たる夫(注・光雄さん 76歳)は悩み、悔しいと、築150年になる母屋解体の申し込みをいまだできずにいます。
あれから11年半も過ぎ、イノシシが掘り返した土で排水溝を埋めたために床下浸水を繰り返し、動物ベッドで寝、コウモリが座敷を飛ぶ、わが家は解体するしかありません。分かってはいても納得できず、踏ん切りがつかないのです』
石井さんは22年9月29日、仙台高裁での控訴審第1回の口頭弁論に立ち、こう訴えた。そこで語られたのは、筆者の心に懸かっていた古民家のことだった。口頭弁論の中で石井さんは、築300年の家を泣く泣く解体した原告仲間の体験を紹介した。手斧(ちょうな)削りの大梁が残る立派な家だったという。国への申込期限を過ぎれば、自己負担での解体となり、後に残る残材は放射性廃棄物扱いになる。何より、「後の世代に負担を掛けないための苦渋の選択」なのだ、と。

石井さんの車に同乗させてもらい、津島の家を訪ねたのは昨年12月上旬。夫婦でついに決意し、解体を4月以降にしてもらう希望を国に伝えたと聞いた。あらためて間近で見上げると、母屋は歳月を超えた民芸のような美しさがあった。渋味ある焦げ茶の壁板、格子模様の戸袋、養蚕部屋があった2階の明かり取りに18枚も並んだ曇りガラスの戸。数え切れぬ瓦の縁の波打つ模様と、支える白い垂木(たるき)の列がつくるリズム、その隅を彩る七曜の家紋の飾りー。町の文化財指定の話もあったという。
石井さんと入った勝手口の中の「釜屋」(炊事場)には、今では珍しい煉瓦のかまどに銀色の大釜が据えられている。組内(くみない)でお葬式があると、もち米を二斗三斗と蒸して「おふかし」を作ったという。みそ造りの大豆を煮て、冬の保存食のフキもゆでて塩漬けにした。6月には、石井家の田植えの手伝いに来てくれた隣人、縁者の家にお礼で届ける柏餅を200個ほども蒸した。「この山村は『結』で支え合っていました。お礼の柏餅も届け合い、家ごとの味を楽しめた」
しかし今、かまどのレンガ組みは崩れ、雑草が生え、土間に水が浸み込んでいた。釜屋から続く台所は足の踏み場もないほど食器雑器が散乱し、茶の間も散らかされて、動物の糞らしき小さな黒いものが落ちていた。石井さんには、無念を通り越した表情があった。

「住民避難の日までそのままだった家が、初めて戻った夏には台所が散らかり、荒らされ始めて、ネズミや野生動物が入り込んでいるのが分かった。次には入り口の戸が壊されていた。避難先から一時帰宅をするたびに、朽ちてゆくわが家を目の当たりにする気持ち、分かってもらえますか」
人がいつも集う旧家に都会から嫁ぐ
石井さんは、もともと津島の人ではなかった。父親の転勤先の北海道で生まれ、九州、関西、関東を引っ越して歩いた。大学生時代は横浜に住み、帝国ホテルの列車食堂部でアルバイトをし、東海道新幹線のビュッフェでウェイトレスをしたという。そこで、シェフの手伝いや皿洗いのアルバイトをしていた光雄さんと出会い、1971年に津島へと嫁いだ。石井家の母屋に初めて足を踏み入れたという時の驚きを、筆者は追体験することができた。
歴史ある家を支え続けた大黒柱は1尺(約30センチ)の太さがあり、天井の中心に通された松材の梁は2尺もの幅。大小11の部屋があり、「戦後の農地解放までは地主の家で、当主だった義理の伯父(石井潔氏・故人)の兄弟7人が家族と一緒に暮らしていました」。冠婚葬祭のたびに大勢の人が集った広間は24畳もあって、3間幅(5・4メートル)の神棚が据えられている。

伯父は、石井さんが嫁いだ当時、浪江町の助役をしており、後に町長(6ー7代)にも選ばれた。「いつも人が集まる家で、伯父が助役時代は朝5時に雨戸を開けると、もう来客があった。町長に立候補して当選するまでは、寝る間もないくらいの忙しさ。旧家の嫁の頑張りどころでした」。その上、母屋の隣にはサラブレッドを飼育する厩(うまや)もあった。
石井家はさらに、津島の伝統行事「田植え踊」(国の選択無形民俗文化財・福島県指定無形民俗文化財)の「庭元」(座長、運営の元締め)だった。狂言回しの「鍬がしら」と「早乙女」の男ばかり十数人の一座で、小正月に五穀豊穣、子孫繁栄、疫病撲滅などを祈願して神社に踊りを奉納し、家々を巡ってから石井家に戻り、24畳間の神棚の前で「笠脱ぎ」という踊り納めをした。その後は夜通しの打ち上げだった。「練習も連日あり、当日になると支度を手伝う女性たちや、踊りを見に来る人たちで大にぎわい。20~30人分の食事と宴会の準備は一日がかりの大仕事でした」
「ふるさと」の歌にフラッシュバック
春夏秋冬、親類縁者や地元の人たちとのどっぷりと濃密で、隠し事さえできず勝手知ったる関係は、山間の貧しいムラの暮らしの支え合いであり、困った人がいれば周りが助けた。敗戦後の旧満州引き揚げの開拓者家族も差別なく仲間として受け入れたという、津島の人々の心映えの良さだった。都会から来た当初は抵抗もあったという石井さんは、朝早く暗い釜屋で赤い火を起こしながら、同じように火を見つめ続けた大勢の女性たちに思いを馳せ、ここが私の「ふるさと」になる、と受け継ぐ覚悟を決めたそうだ。
その思いと向き合わされたのが、原発事故後の避難所での出来事だった。訪れた自衛隊音楽隊の慰問演奏で唱歌『ふるさと』を合唱した時、一小節も歌わぬうちに涙があふれ、津島での生活のすべての場面が脳裏にフラッシュバックして、「言いようのない居所のなさ、浮遊感」がどっと湧き出た。その体験を「ふるさとを返せ裁判」控訴審の初法廷(仙台高裁)で訴えた。

すでに石井さんは、一審(福島地裁郡山支部)第8回の意見陳述に立ち、帰還困難区域からの避難者いう境遇の、わが身心と「ふるさと・津島」とを引き裂かれ、さいなまれ続ける残酷さを語っていた。それは、法廷に詰めかけた津島の仲間全員の涙と怒りの声でもあった。
『ネズミの駆除剤を土間にまいたら、ポチャッと音がし、水が溜まっていた。イノシシが土を掘って側溝を埋めてしまい、雨水がすべて床下から土間に流れ込んでいました。この家に嫁いで以来、かまどの赤い火を見つめてしゃがんでいた場所。避難するまで、毎日、毎日、この土間で忙しく立ち働いていました。そこが水浸しです。でも、住めないのですから、どうすることもできません。情けなくて、体の力が抜けていくようでした。人生そのものを奪われたようでした。悲しくて、悔しくて、耐えがたい思いです』
変わらぬ絆、裁判も支え合っていく
石井さんと母屋を出て、すぐ脇にある社(やしろ)の前に立った。昭和4(1929)年建築と墨書の残る一間半(2.7メートル)四方の立派な氏神様で、大みそかにお神酒を、正月三が日はお雑煮を供えて、一家の無事健康と平安な暮らしを祈ってきたという。手を合わせた後、石井さんが「決して忘れない」と語ったことがある。
それは原発事故の後、東電が福島県内のある民事裁判で放射性物質の除去費用を求められ、そこで「飛散した放射性物質は無主物(所有者がいない)」との主張を行ったことだった。避難先で伝え聞いた石井さんに憤りがこみ上げたといい、先の一審(第8回)の陳述ではこう訴えていた。
『わたしたちは、決してあきらめません。津島を元通りにして返してもらうまでは。津島は人生そのものです。原告はみなそう思っています。津島を返せというのは、人生を返せ、ということです。自分の人生をかけて、必死の思いで、そう訴えているのです。無責任な言い逃れは全体に許されません』

「ふるさとを返せ裁判」の次回の開廷は、原発事故から15年目を迎える3月だ。長引く避難生活で高齢になった仲間の痛ましい訃報も届くが、それでも、「津島の原告団の結束力は他にないね、とほめられます。布団を干していて留守に雨が降ったら、周りの誰かが家に取り込んだ。みんなが、困れば助けに駆け付ける『ふるさと』の暮らしを共にしてきた。私は、昔、公民館長をやったことがあるからと副団長に推され、一度は固辞したけれど、『津島みんなで立ち上がろう』という思いは一緒でした」 。
「『そんな深刻な裁判をやっているのに、みんなでよく笑ってるね』とも言われる。でも、それが津島。互いを心配しながら、避難先はばらばらで、いつでも会えるわけではない。顔を合わせて話をできることがうれしい。集まる日には、懐かしい『津島の味』を一品ずつ手作りして持ち寄る。愛着も絆も、つながりも思いも、離れていても変わらない。『ふるさとを返せ裁判』は、みんなで支え合っていく」
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