687年前から続く「念仏」の今を見た 秋田・横手

年に一度だけ、部落の大人の女性が集会所である「会館」に集まる。そして、彼女たちは輪になって、尋常でない長さの一本の数珠を回し続ける。そして、念仏をただただ唱える。 それが、自分の住む部落の「念仏(ねんぶつ)」というものだ。

しかし、自分は大人になるまでその存在をまったく知らず、45歳になる今まで見たことがなかった。 夏土用に入った7月21日、今年の「念仏」が行われるということで、小さな興奮を胸に秘めながら、横手市十文字町の二ツ橋の会館に向かうことになった。

(注)東北の多くの地域では、差別的な意味を含まない「集落」の別称として「部落」という言葉が使われています。

45年間、目にすることのなかった部落の行事

「じゃあ、すみませんけど、始めまーす」という声のあと、何の緊張感もなく、太鼓の音とともに念仏は始まった。

「なむあみだ〜、なむあみだぁ。なむあみだ〜ぶつ、なむあみだぁ」と太鼓の音に合わせて、歌うように繰り返し念仏を唱える。そうしながら、すばやく数珠を手で持ちながらも、 右へ右へと回していく。数珠には大きな玉が一つあり、その玉が回ってきたら額に付けるようにして頭を下げる。ただそれを延々と繰り返す。

自分も見よう見まねで輪に加わり念仏を唱えたが、数珠を回すのが慣れるまで意外に難しい。他の人は数珠を回すのが早い。それに合わせないといけないので、とにかく手元が忙しい。そうしながら、およそ 10秒に4度のペースで「なむあみだぁ」と繰り返し途切れなく唱える。エアコンと扇風機で冷やされる室内なのだが、5分した頃には脇に汗を感じた。

単調に叩かれ続ける太鼓、ガチャガチャと音を立てる数珠、自分が唱え、そして周りも唱えて耳に入ってくる念仏に、疲れも相まって、だんだんと思考停止気味になってきた。45秒ほどで数珠が一回りする。そのたびにビーズを使って何周したか数えられていたのだが、あと何回で終わるか数える余裕はなく、ただひたすら数珠を回し、念仏を唱えた。太鼓の打ち手が途中で替わった。それ以外、何の変化もない。延々と数珠を回して念仏を唱え続ける。

始まってから23分、「ごくろうさんでした」「ありがとうございました」と言って、ようやく念仏が終わった。

※360°動画です。画面をぐるぐる回しながらご覧下さい。

「お願いします」とハウ子さんの決断

「なんとか30回で。ぶじょほう(粗末で失礼)だどもお願いします」と言って頭を下げたのは、「ほっこさん」の愛称で親しまれ、働き者として知られる丹ハウ子さん(76) だった。

当番の班長の丹ハウ子さん(中央)と同じ班の女性たち

これまで、念仏を唱えながら数珠を一回りさせるのを50回としていたが、今年から30回に減らそうというのだ。

「わぁも足痛でしよ、みんなあれだべど思って(自分も足が痛いしね、みんなもそうだろうと思って)」と言い添えられた言葉に、「んだ、んだ」「いいんだ」という同意する小さな声が聞こえた。大きな数珠の輪の外に座っていた他の参加者も「お願いします」と言って、頭を下げて同意した。 今年の当番の班長のハウ子さんが、悩みながらも今年から30回にすることをお願いし、認められた一コマだった。

長く続く部落の行事を自分のときに変えることは、なかなか難しい 。「1班だ し、令和元年だから、変えるなら今がいいべがら」と決断したのは、参加者の負担を考えてのこと。ほとんどが70歳前後と高齢で、正座しながら続けるのは大変なことは、体験した自分には十分にわかった。

鎌倉時代から続く人々の祈りと、令和に至るまでの変化

そもそも「念仏」とは、全国的には「百万遍念仏」と呼ばれるものである。その発祥の由来は鎌倉時代末期とされている。元弘元年(1331年)に都で蔓延した疫病を天皇に命じられた僧たちが、七日七夜にわたって百万遍の念仏を唱えながら大念珠繰りをしたことで疫病が静まったことが起源のようだ。大勢で念仏を唱えながら数珠を回すことで、1回で一万回、100回で百万遍念仏を達成したとみなす形で庶民に広がった。

村の安寧を願う行事として秋田では村の入り口となる道で念仏を唱え、疫病などの災いが来ないよう、願う地域が残っている。78歳になる父や年配の人の話では、もともと戦後くらいまでは、いくつかある部落の入り口の道で、念仏を100 回唱えていたらしい。しかし、いつのころからか神社で行われるようになったようだ。

そして、50年ほど前に嫁いできたばかりの20代の母が当番のときに「外でやってたら日にあぶられて、かえって具合が悪ぐなる」と会館でやると決め、回数も 50回に減らした。また、5年前には3軒くらいやっていたこの行事が、負担が大きいということで7、8軒からなる班でやるようになったそうだ。昭和、平成、令和と時代が移り変わり、「念仏」が行われる形も変わってきているのだ。

地蔵(左)の脇に立てられた木札と昔の念仏を知る高橋一男さん(80)

負担の大きい「念仏」が、なぜ続くのか

1331年の京から始まったものが、東北のこの地にいつ伝わったのかを誰も知らない。しかし、令和の時代となっても、形を変えながらも続く「念仏」。なぜ、続いているのだろうか。

当番は、2週間ほど前から動き出すという。夏土用に入ってからの日曜で、自分たちの都合のいい日を実施日と決めたうえで、部落の5カ所に立てるお札の作成をお寺にお願いし、各家々にその年の念仏の日を知らせるとともに、お金を集めて回る。そのお金で当日の会食とお札の費用に充てるのだ。

当日は、朝に軽トラックの後ろに乗った打ち手が「ドン、ドン」と太鼓を叩きながら集落を回り、念仏があることを触れ回る。そして、午前に念仏を会館で行ったあと、神社でお祈りし、また会館に戻って会食をする。そして秋にも「おはたし」ということで、会食のみを行う。当番となった人たちは、なかなか手間がかかるのだ。

神社内で行われる祈り

今年の当番の班の女性たちに「なんで続けているのか」と素朴な疑問をぶつけてみると「ほんとだよね」とも「なしてだべな(どうしてだろうな)」とも言いながら、顔を見合わせて互いに少し笑みを浮かべた。「今までやってきたら」とも口にした。

おそらく少なくとも100年以上は続き、悪疫などを防ぎ、村の安寧を願うために行われてきた「念仏」。

「今までやってきたから」。

医療も飛躍的に発展し、祈りにすがる意味が薄くなった今、なお「念仏」が続いている理由は、実際のところそんなところかもしれない。

「いや、それだけではない」と私の心が「待った」をかける。

「そこに願う気持ちがあるからだ」と。