車窓から見えたのは「震災後」に生まれた景色だった 荒浜に1日限りバス復活

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【安藤歩美=仙台市・荒浜】誰も住むことができなくなった街を、路線バスが走る。車内は立っている乗客ばかりで、ぎゅうぎゅう詰めだ。冬だというのに、浮き輪を持って乗っている子供もいる。「次は、終点、深沼でございます」。車内アナウンスに、乗客たちは一様に高揚していた。

 「おかえりなさい!」。海岸のすぐそばに停車したバスと乗客を待っていたのは、「深沼海岸行き」のバスの復活を心待ちにしていた人々の輪だった。降車した乗客と、肩を抱き合う人々。「ようこそ荒浜」の横断幕を持って待っていた人。涙を流す人ーー。たった一本のバスを、待ちわびていた人たちの姿があった。

 約740世帯の人々が暮らしていた仙台市沿岸部の荒浜地区。400年以上もの歴史があるとされるこの街は、2011年の東日本大震災の津波に襲われて壊滅的な被害を受け、仙台市に「災害危険区域」、つまり人が住んではいけない地域に指定された。

 「深沼海岸」は震災前まで仙台市唯一の海水浴場として賑わい、毎年夏になると、仙台駅前から発車する深沼海岸行きのバスは海水浴客でいっぱいになった。しかし震災後、住民たちは内陸側へ移転し、津波被害にあった家は取り壊され、海水浴場が解放されることもなくなった。仙台市のバスは震災後、「深沼海岸」を終点とする荒浜地区のバス停に、止まることはなくなった。

 そのバスが、震災から5年9カ月が経った12月11日、1日限りで荒浜に帰ってきたのだった。この日、JR仙台駅と深沼海岸までを結ぶ、震災前と同じ路線の1往復の便が運行した。

きっかけは、「ニセモノのバス停」だった

 きっかけは、「ニセモノのバス停」だった。

 利府町の芸術家・佐竹真紀子さん(25)は、東京の大学院に在学中の2015年6月、震災後になくなってしまった「深沼」のバス停のレプリカを制作し、元あった場所に設置した。「震災後に荒浜を訪れたとき、街のどの場所に何があったのかを気付けるものがない、と思いました。見る人がバス停のある風景を思い起こすことで、街のことを思い出すきっかけになれば」と制作意図を語る。

 設置当初は、「偽バス停」に荒浜に住んでいた人々からどんな反応があるのか、不安だったという。しかし設置後、荒浜を訪れていた元住民に趣旨を説明をすると、意外にも返ってきたのは「ありがとうございます」との感謝の言葉だった。震災前の街を懐かしく想起させる偽バス停の姿は、今も荒浜に通い続ける元住民らの間で人気となり、荒浜の「偽バス停」の数は次第に増えていった。

 仙台市中心部と荒浜の街とをつなぐ市営バスは、荒浜の人々にとって大事な交通手段であり、震災前の街の日常を代表する風景でもあった。そんな大切な風景を、また復活させることができないだろうかーー。佐竹さんは、荒浜で元住民らと交流するツアーを定期的に開催している団体「3.11オモイデアーカイブ」とそんな思いを共有し、同団体と協力して今年の夏から市営バスの復活へ準備を開始。仙台市と交渉した結果、1日限定で市バスを貸し切り、「偽バス停」深沼海岸を終点にしたバスを運行できることになった。「3.11オモイデアーカイブ」の佐藤正実さんは、「夢物語だと思っていたことが本当に実現したのだと思うと、胸がいっぱい」と、目を細める。

 この日バスに乗車した元荒浜地区の住民の佐藤豊さん(79)は「今は盛り土などがされていて震災前とまるで風景が変わった中で、偽バス停が立っていることで、バス停の立っている背景にあった風景を思い出しました。荒浜にはいつも来ているのに、バスに乗ってバス停の場所を見ることで、初めて思い出した場所がありました。不思議ですね」と、話す。

「震災後でも、新しい場所を作ることができる」

 佐竹さんは「荒浜小学校前」「荒浜郵便局前」など、荒浜地区に元々あった6カ所のバス停を復活させただけでなく、震災後に荒浜に新たに誕生した場所にも「偽バス停」を設置している。スケートボードパーク「CDP」、「里海荒浜ロッジ」、「海辺の図書館」、「大吉丸番屋」の4カ所。いずれも震災後、元住民が津波で流された自宅の跡で始めた、「荒浜」という街の記憶や文化をつなぐための、活動の拠点だ。

 「元住民の方に『里海荒浜ロッジにバス停を置きたい』と言われたとき、震災後でも新しいスポットを作ることができるんだ、と気付いたんです」と、佐竹さんは話す。「バス停は、人が来たり、帰ったりするポイント。それなら、震災後に生まれた新しい交流の場所に置くことは自然なこと。地上に地図を作っていくかのように、バス停を配置しているんです」

 震災後、自宅跡に小さな小屋を置き、荒浜を訪れた人々が寄ることができる「海辺の図書館」をつくった庄子隆弘さん(43)は、この日乗車した市営バスから見えた風景をこう振り返る。「貞山堀を超えるまでは、昔はこんな風景だったな、と、震災前の荒浜の街並みや、子供のころに見た風景を思い出していたんです。それが、貞山堀を超えたときに、景色が変わった」

 荒浜のシンボル・貞山運河にかかる橋を越え、終点「深沼海岸」に向かって走っていくバスの車窓から見えたのは、「おかえり」と横断幕を持って声をかける元住民の人々や、バスの到着を待ちわび、手を振る多くの市民らの笑顔。「里海荒浜ロッジ」では、隣街の蒲生地区から手伝いに来たお母さんたちがお雑煮を準備していて、煮炊きする煙が立ち上る。そこには、明らかに「震災後」に生まれた景色が広がっていた。

 「震災前、という過去の郷愁だけでなく、新しいところに踏み出していける、そんな気がした」。庄子さんは、感慨深げにそう語る。人が住めなくなった街。それでも元住民は街の記憶や文化を消すまいと、この場所に通い続けた。その周囲には地域の外の人々が集まるようになり、笑い声が聞こえるようになっていった。震災後にこの場所に、いつしか新しい風景、文化、街の姿、人の交流が生まれていたのだということを、バスの車窓から見る風景が気付かせてくれた。

荒浜を訪れた人々に、震災前の街並みを説明する庄子隆弘さん。荒浜には今も家の土台が残る(安藤歩美撮影)
「里海荒浜ロッジ」には毎月、元住民や市民らが集まってにぎわう(安藤歩美撮影)
荒浜から仙台駅へ帰るバスの乗客に、手を振って見送る人々(安藤歩美撮影)