【連載:陸前高田 h.イマジン物語】東日本大震災で店舗が流出し、2020年に復活した岩手県陸前高田市のジャズ喫茶「h.イマジン」。ジャズの調べとコーヒーの香りに誘われて、店内には今日も地域の人々が集います。小さなジャズ喫茶を舞台に繰り広げられる物語を、ローカルジャーナリストの寺島英弥さんが描きます。
【寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】また、3月11日がめぐってきた。2011年の東日本大震災が起きた、あの日から丸13年。陸前高田市のジャズ喫茶「h.イマジン」店主の冨山勝敏さん(82)は、今年も、店を閉めて隣接する本丸公園(標高40㍍)の石段を上り、神社と広場がある展望台で午後2時46分を迎えた。高田の古い街並みが大津波にのまれた惨状と、現在の店とほぼ同じ所に開店して約80日で流失した2代目「h.イマジン」の最後を目にした場所だった。そんな光景を思い出しながら黙祷したという。
「あの時は、津波から必死で、ずぶぬれで避難してきた人が大勢ここにいたが、今年は私のほかに4人ほど。静かなものだった。追悼のセレモニーは今、海岸の防潮堤の内側にできた復興祈念公園で催されるからね」
昔の城跡だった本丸公園は、街で唯一の高台の避難場所を兼ねて、駐車場や公衆トイレもきれいに整備され、木立の間から市街地と海を一望できる名所だ。見えるのは、震災からの「復興」の意味を考えさせられる、陸前高田の現実の姿だ。
区画整理後の空地の風景
約300㌶の広大な被災地を埋めた、高さ10㍍を超えるかさ上げ工事。そのために長さ2㌔の巨大なベルトコンベア(長さ約3㌔)が造られ、東京ドーム9杯分というの膨大な量の土砂が、住宅造成地の山を切り崩して運搬され続けた。震災から10年後の21年春にようやく完成し、避難先の地権者(住民)へ換地された、陸前高田市の復興土地区画整理事業。筆者は陸前高田を取材で訪ねる度、古代の専制君主しか為さなかったであろう巨大工事の模様を複雑な思いで眺めてきた。現在、市の住民基本台帳上の住民は1万7550人だが、多くの人は戻らず、区画整理後の整然たる商用地、住宅地の6割は空地。そこには「売地」「貸地」の立て札が連なる。
「津波の後、住民たちは先祖代々の土地で生き直そうと区画整理に同意したが、将来の見通しが、当時の市長をはじめ誰も分からなかった。街の地主の一人を知っているが、駐車場とかの借り手、需要がたくさん出るか、と思っていたら、誰も来ない。『マスター、どうにかしてよ』と言われる。街に新しい店や家は増えず、人の姿も寂しい限りだ」と冨山さん。その責任を問われたように、震災後のかじ取りをした現職は今年2月にあった市長選で、元農林水産官僚の新人に大差で敗れた。
新しい市長は選ばれたが
新築の市役所庁舎は街で群を抜いて高い7階建て。13年前の津波は旧市役所(3階、一部4階)が水没、全職員の3分の1近い113人が亡くなり、被災後の行政機能・文書類は失われた。その教訓から災害時も業務を継続できるように設計されたという。が、600人規模の大ホールがある市民文化会館とともに、ガリバーのような存在という印象が強い。
市役所は「h.イマジン」からわずかの距離で、「新市長が店に何度か来てくれている。ざっくばらんな印象だよ」と冨山さん。「この街は震災後、JR線(鉄路)がなくなり、交通の便が悪く、大型船が入る港もない。このままだと消滅しますよ、と水を向けると、『これから何かしないといけない』と話してくれるが」
地元出身で59歳の新市長は、大学誘致、先端産業誘致と雇用創出、農林水産業の生産額倍増など、市民の閉塞感を破るような公約を打ち上げた。漁業が盛んな地域出身で、水産振興への期待も高いという。だが、「中央とのパイプ」で予算を持ってくるだけでは、「国頼み」「国任せ」だった震災後の13年間と変わらない。
「頑張っている若者たちのグループはある。空き家を活用して移住者向けのシェアハウスづくりをしたり、廃業した特産リンゴの園地を引き継いで生産を続けたり。他の土地の出身者らのNPO活動だ。しかし、地元の若い人たちがどうしたいのか、姿が見えないんだ」。昨夏、東京資本の野菜生産農地の一角に造られた野外音楽堂で、こけら落としのコンサートが催されたが、会場は閑散としていたという。
震災翌年、大船渡での店復活
「よくぞ、ここまで。おかげさまで、ここまで。3度目の漂着地というべきかなあ。道のりは長かったようで、短くもあり。自分の予想をはるかに超える店ができた。みんな、たくさんの人の支援のおかげ。もし東京へ帰っていたら、『みたびの夢』もなかった」。震災の翌2012年の3月11日、隣の大船渡市立根町のブティックの一角に1年ぶりに「h.イマジン」を復活させた時、冨山さんが語った言葉だ。
もともとジーンズの売り場だった米国風の板張りの壁、床を生かし、多彩な国旗をクロスにした5つのテーブル、復活を応援する人たちから寄贈されたJBLの大きなスピーカーやアンプ類、全国から集まったレコード5000枚から選りすぐったジャズの名盤の数々。存在感のあるピアノにも「物語」があった。津波で被災した大船渡小に愛知県内からグランドピアノの支援品が届き、体育館で長年使われていたピアノを引き取って修理した楽器店の社長から、「もらってくれないか」と声が掛かった。冨山さんが仮設住宅での生活の中で描いた再生の夢が静かに実現した日だ。 (参照・【陸前高田h.イマジン物語】⑪膨らむ「3代目の店」への希望)
再開店当日の最初に掛けた曲は何だったか、と筆者は質問した。冨山さんが答えたのは、女性歌手ヘレン・メリルの『You’d be so nice to come home to』(帰ってくれたら、うれしいわ)。「失われたすべてのものが、帰ってくる。誰にとっても、そんな店にしたい」という冨山さんの願いにふさわしい選曲だった。癒しのジャズとともに、ブルーマウンテン・ブレンド、ロンネフェルトの紅茶など、津波で流された陸前高田の店のメニューも復活させた。
さっそうと、晴れ晴れした笑顔のマスター復帰に、2004年に大船渡の碁石海岸に冨山さんが開いた初代「h.イマジン」以来のなじみ客、常連さんたちも集った。復活後のお客は初日に60人、2日目に50人、以後も20~30人が訪れ、地元のビートルズマニア・バンドの「復興ライブ」企画もにぎわった。
また、小さな希望を持ち寄れるか
筆者が取材で訪ねた別の日の夜、冨山さんを応援するブティックの主人と、初代の店以来のファンでレコード約300枚を寄贈したという男性が訪れ、その会話が、感慨深く思い出される。自分もまたジャズ貴重盤のコレクションもろとも「俺の青春も津波で流されたなあ」というぼやき、そして経営する料理店の百周年の会を「h.イマジン」で開きたいとの希望を冨山さんに聞かせた、その客はこうも語った。
「あきらめかけた夢だった。それを、みんなが持ち寄ればいいんだ」。帰り際にながめた店の赤いランプが、ようやく帰ってきた小さな希望の燈火にも見えた。そんな、たくさんの小さな希望はいま、どこにあるのか。
2024年3月11日から、また新しい1年を歩み始めた冨山さんはこう言った。「助けてちょうだい、とお金を集めることを考えるだけでは、悲観的になっては、希望も可能性もない。能登半島地震の新たな被災地を目にしたなら、なおさらだよ」
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