【陸前高田h.イマジン物語⑥】追想、ログハウスの初代の店

【連載:陸前高田 h.イマジン物語】東日本大震災で店舗が流出し、2020年に復活した岩手県陸前高田市のジャズ喫茶「h.イマジン」。ジャズの調べとコーヒーの香りに誘われて、店内には今日も地域の人々が集います。小さなジャズ喫茶を舞台に繰り広げられる物語を、ローカルジャーナリストの寺島英弥さんが描きます。

寺島英弥】2011年3月11日の津波で流された、オープンから間もない「夢の店」、h.イマジン。陸前高田の町並みの廃墟に埋もれたジャズ喫茶の跡に立ち、心を癒せる場を求める人のための再建を誓った店主、冨山勝敏さん(79)の避難所での暮らしは続いた。

「なあに、振り出しに戻っただけさ。手塩に掛けた店を失ったのは、初めてではないんだ」。約2000人の被災者が肩を寄せ合った市立一中体育館で、冨山さんは筆者に語った。そのわずか1年前の2月11日の真夜中、それは突然の焼失だったという。

人生の新天地を求め

隣の大船渡市にある碁石海岸。千変万化の奇岩が織りなす絶景のリアス式海岸で、三陸復興国立公園の名勝だ。今のビジターセンターの道向かいの一角に、松林に囲まれたh.イマジンの初代の店があった。開店は2003年12月22日。写真は残っておらず、冨山さんの当時のブログを見ると、店は野趣たっぷりの別荘風のログハウスだった。

「私が東京から移住してきたのが、その年の7月。気仙大工の遺産だった古い建物を買って2代目の店を造った時と同じように、一目惚れしたんだ。三陸の風光に」

三陸の景勝地、碁石海岸=2021年7月8日

冨山さんは27年間勤めたプリンスホテルを91年に早期退職した後、ホテルのIT開発のベンチャー企業、秋田県大潟村の新設ホテルで役員を務め、最後は富士通の本社システム統括本部からマネジメントシステムコンサルタントを6年間委嘱された。日本のホテルの「進化」を現場で担うプロとして生き、その最後の1年は「これから現役を引退して、何をやろうか」と思案したという。サラリーマン生活から生き方をすっかり変えたかった。その結論が、「自分にも一からできるのはジャズ喫茶かな」。

東京近郊のマンションの自宅に約400枚のジャズのアルバムがあり、1950~60年代の名盤がそろっていた。しかし、熱狂的なジャズ愛好家というわけではなかった。「すぐ上の兄が、友人から引き取り手探しを頼まれ、私が『まあ、いいか』と譲り受けたもの。それを元手に、人が知らない辺ぴな土地に空き家が一軒見つかれば、『お客が誰も来ないジャズ喫茶』くらい開けそうだ。それなら自分にできると思った」

碁石海岸へ移住決行

移住計画は富士通在籍中の2002年から温め、そのころブームになっていた田舎暮らしのサイトで箱根、伊豆などの空き家を見ていたところ、1件だけ、「岩手県の『湘南』」と銘打たれた碁石海岸の物件が出てきた。「写真には、首都圏近郊のリゾート地にない丸ごとの自然の魅力があり、運命の出会いのように引き付けられた」。夏に休暇を取り、そのころ買ったばかりの三菱ディアマンテのハンドルを握って、水戸街道から福島の浜通り、宮城の松島、気仙沼などを通って、碁石海岸にたどり着いた。

がっちりとしたログハウスの初代「h.イマジン」=大船渡市の碁石海岸

冨山さんを迎えたログハウスは、三角屋根の上に「軽食喫茶」の看板が載り、築20年にして10年近く空き家状態だった。素材はカナダ産の松材で、カナダ人のメーカー担当者が来て組み立てたと聞いた。中には立派なカナディアンストーブがどんと鎮座していた。1800万円の売値を、交渉して500万円引きで買ったが、「内外ともがっちりとして痛みが全くなく、『お、これだな、いいじゃん!』と気持ちが弾んだ。地元の大工さんからは『今なら(費用は)5000万円掛かるよ』と言われた。退職金と貯金の範囲で買えた。何よりも、あんな美しい海の風景を見たことがなかった。新幹線で直行できず、ローカル線に乗り継ぐ三陸のロケーションもいい。私の人生でやっとたどり着けた場所、と思った」

ここで、冨山さんはある決断をした。帰京後、自宅で家族会議を開き、自らは退職後単身、碁石海岸で新しい人生を始める決意を伝えて、「それぞれが独立しよう」と呼び掛けた。家族は奥さんと、20代になった息子さん2人。「みんな、賛成してくれたよ。息子たちは、『親父は一生懸命に働いた。好きに生きてくれていいよ』と」

初めての店を手作り

住民票を、地元の大船渡市に移したのが03年7月1日。夜になるとログハウスのロフトで寝たが、海鳴りのほか、まわりには物音ひとつなく、それまで経験したことのない静寂だった。「でも、誰もいなくたって、寂しいという感覚は湧かなかった。一人で好きなように人生を生きられるんだ、と初めて解き放たれた気持ちになれた」

大きなカナディアンストーブがあり、野趣と温かみいっぱいだった店内

ログハウスの室内には、手作りされた木製の家具があり、大きめの椅子は北欧製だった。「塗装がはがれたり、ねじが緩んだりしていたが、自分で修理、リフォームできた。私は原色が好きなので、椅子をペンキで赤や青に塗り分け、広いウッドデッキで乾かした」。カップ類など必要な食器も、ウエッジウッドやノリタケなど、いろんな洒落たカップをネットのオークションで買い集めた。足りないのは、東京から運んだジャズのレコードを鳴らすオーディオだったが、そこにも不思議な縁が生まれた。

「店づくりのさなか、一風変わったおじさんが現れ、『ここは何になるの』と聞かれた。ジャズ喫茶と答えると、『いいオーディオセットを持っている。何なら、使ってくれるかな』と言うんだ。持ってきてくれた実物は、一見してマニア向けの高級な『サンスイ』で、すごくいい音がした」

同じような経緯で立派なヤマハのピアノも、処分に困った持ち主から話があって寄贈され、ライブ演奏のできる店が誕生した。

「余所者」が話題の人に

未知の土地でも、不安や孤独を全く感じなかったという。「自分にあるものは、手先の器用さ自慢と、長年のホテル運営経験、人見知りをしない性格。それに、思いもしないような人の縁もあった。まあ何とかなるだろうと、(03年の)クリスマスイブの2日前、前宣伝も一切しないで店を開けた」

それからの成り行きを、冨山さん自身がまとめた記録「自遊閑人流転放浪記」を引用させていただくと…。

〈余所者が長年空き家の店舗をゴソゴソやっていると、訝しげに遠巻きに様子伺う地元住民数人が恐る恐る勇気をだして「オープンしてるの?」。

第一号お客様は地元近隣から(千葉県)柏市へ嫁いだと云う若奥様とご主人ペア。今まで大船渡市には有り得ない「洒落たジャズカフェ」出現に興味津々?ポツンポツンと…。地元有力者も訝しげに探るが如く「こんな何もない辺鄙な寂しい村はずれに何故・何をしに来たの?」〉

開店当初、客は1日平均6、7人。物好きしか来ない店だった」と冨山さんは振り返った。やがて、地元にいなかった「自由人」のマスターに引かれて、「そのうちに60〜70代の女性が客の9割になった。 それが話題になってか、ミニコミ紙の取材を受けて…」。

市民有志の「ケセンきらめき大学」の集いで、観光振興のアイデアを提案する冨山さん=大船渡市の寿限無亭

碁石海岸のジャズ喫茶のマスターは話題の人になり、地元の広報誌やテレビ、新聞にも登場。ロータリークラブなどから「この町はどう見えるか、忌憚なくしゃべってほしい」と講演依頼が相次ぎ、市観光物産協会から講師の声が掛かった。いかがだろう。新しいものには恐る恐る…の東北人の地域社会に、突然住み着いた「余所者」がもたらした新鮮な出会いと驚きと変化――。

冨山さんは「新しい視点からの助言を請われる」人になった。観光物産協会への加盟と観光部会長就任を要請され、「『何にもない、何にもない』と言うけれど、ぜいたく過ぎるくらい見どころいっぱいですよ」と地元の観光振興のアイデアを提案した。縁が広がった異業種の市民有志と地域興し講座「ケセンきらめき大学」を始め、「h.イマジン」では県内の大学生らのジャズや歌のライブ、マスター直伝の人気イベント「珈琲講座」が新しい常連さんを集わせた。

人気イベントだった、マスター直伝の「珈琲講座」

 冨山さんの新天地での人生は順風満帆に見えた。ところが、大事件が起こる。(次回に続く)

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