【寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】風光明媚なリアス式海岸、豊かな海の幸で知られる三陸の大船渡市。その象徴で本州一の水揚げを誇ったサンマは、しかし、秋サケ、イカとともに記録的な不漁のさなかだ。東日本大震災の津波で被災した水産の街は今も苦境にある。高さ14.5㍍の防潮堤が立った同市赤崎町合足(あったり)の浜に、有限会社「産直グループ」の加工場を訪ねた。小さな会社の自慢は、サンマだけじゃない旬の魅力の直送品。震災も不漁も乗り超え、毎朝の水揚げから手作りする苦心を社長の上野孝雄さん(80)が語った。
その朝の旬の魚を届ける
合足漁港と巨大な防潮堤で隔てられた加工場は、師走の寒風の中。戸外に長い生け簀(す)が置かれ、のぞくと、冷水にたくさんのホタテ貝が浸かっている。女性の従業員がかごにすくい、施設に運んだ。新鮮な状態のまま加工するのだ。 中では、大きな台の上にたくさんのタコがボイルされて並び、また長さ1㍍余りのアナゴの見事に真っ白い身が焼きを施されようとしていた。どれもさぞ美味だろう。
「けさ早く大船渡の魚市場で、私が仕入れてきた魚介ばかり。その朝その朝の旬で勝負している」と上野さんは語る。奥の事務室を隔てる大きなガラス窓に、「お歳暮 タコ いくら 茎若布(わかめ)」「12月中 ナメタ 6人分」「12月10日迄 イカ1箱」「12月10日迄 アワビ むきかき」「いくら 500g」「新巻1本」など、この季節らしい注文書きの紙が貼られている。1枚1枚を指さしながら、上野さんは「うちを応援してくれている会員さんたち。ありがたい」とほほ笑んだ。
上野さんは合足出身で、若い頃、気仙地方(大船渡、陸前高田、気仙沼など三陸南部の地域)で盛んだったマグロの遠洋漁船に通信士として乗って、「遠くケープタウンからペルー沖まで航海した。子どもが大きくなって、37歳くらいで陸に上がったんだ」という。
産直グループを旗揚げしたのは1986年。創業のきっかけは当時、ヤマト運輸が始めた代金引換サービス(注・商品配達と引き換えに客が代金を支払う、着払い。代金未回収がなく、産地直送を後押しした)。
「それまで漁業者は市場に魚を出し、消費者は魚屋に行ったが、大船渡の魚を産直で全国に売り込めたらと考えた。条件は安定した荷物量。そこで地元の魚屋を5人誘ってグループをつくった。おれたちのやり方は全国でも新しく、思いのほかヒットした。魚もよく捕れた時代で、新鮮なサンマ10本のパックを1日1000件も送った。それを地元の郵便局も後追いしたんだ」
順風満帆の産直会社を津波が流す
商売は順調だった。元号が平成になった1989年、隣の陸前高田市の広田地区に会社と加工場を置き、当時あった国道4号の道の駅や物産館、ホテルなどでも商品を売ったり、西武系列のデパートでカニ、サケ、タラなど1万円のお歳暮セットを出して人気商品になったりした。
そして、2011年3月11日。上野さんは合足でワカメの初刈りをし、その後、晩に予定したパーティーのお酒を買いに出たところで大地震に遭い、浜を離れていて大津波を免れた。妻悠記子さん(77)ら家族も幸いに避難でき、また合足の実家も無事だった。が、陸前高田の会社、加工場は津波で全壊し、開業から順風満帆だった産直の基盤はすべて流された。
「大船渡の街にあった家は天井まで津波にやられ、一からの出直しだった。しかし落ちぶれてはいられない、産直の縁でつながる会員たちがいるのだから。仕事を始めなくては、と(保冷車の)保冷庫を手に入れ、冷凍機を回して、復旧した大船渡漁港の市場に揚がる魚をまた送らせてもらった。震災から1年もしないうちだった」
会員から励まされての加工所再建
上野さんは加工場で「おまかせセット」作りの手を止めて、そう振り返った。「おまかせセット」は創業当初から続く商品で、その日の朝に水揚げされ、仕入れた魚介を「おまかせ」で詰め合わせる。毎月3800円で、1年の季節々々に違った味を楽しめる。
会員は現在、首都圏を中心に全国で200人。『落ち込む自分を振るい立たせたのは皆様からの暖かい励ましの言葉』と、上野さんは産直グループのあいさつのチラシに今も記している。「震災後、長年の会員さんから心配の電話や応援の手紙が数多く寄せられ、再起を後押ししてくれた。また親戚や友人知人に声を掛け、新たな得意客にしてくれた会員さんもいる。その絆が何よりも再起への希望になった」
上野さんは、加工場再建の場所を郷里の合足に求め、昔なじみの集落の人々から約2000平方㍍の用地を売ってもらった。もともと水の便が悪くコメはできず、麦やサツマイモの畑だったという。津波をかぶり災害危険区域となり、小さな漁港が再建された以外は利用の望みのない土地で、上野さんの計画は地元から喜ばれたという。
「創業から手を組んだ鮮魚店経営者もそれぞれ震災の痛手を負い、再び結集はかなわなかった。そこで新たに地元の製造、運輸、販売の業者が集う産直グループをつくり、国の復興支援策の『中小企業等グループ化補助金』も利用し資金をつくった。会員を待たせないように、臨時の作業場から『おまかせセット』を発送しながら、新しい加工場造りを進めた。完成したのは震災から3年後の3月だった」
目玉のサンマが記録的不漁に
赤崎町の産直グループを筆者が知ったきっかけは、その近隣に住む友人が毎年送ってくれるサンマの10本セットだ。大船渡は本州一のサンマ水揚げを誇り、「大船渡港にサンマ初水揚げ」の秋の便りを新聞で読むと、やがて旬のサンマが届く。じゅうじゅう焼ける、その香りと脂がのった身を味わえる喜びは、比べるものがない。ところがここ数年来、目にする新聞の見出しは「サンマが記録的不漁」だ。
令和に入り、年間累積数量は1万㌧台が遠い状態が続く。元年と2年は、いずれも6000㌧台前半。3年は5700㌧台の平成11年を大きく下回る2471㌧に落ち込み、平成以降で最低水準となった。昨年、今年と2年連続で回復しているが、不漁の息からは脱していない
11月25日の東海新報より/注・大船渡魚市場への同月末現在の水揚げは3770㌧と対前年23%増だが、金額では同8%減
「サンマ、そしてイカも不漁続き。温暖化の影響か、黒潮の勢いが強くなり、親潮が沖に流れを変えた。秋サケも、津波で三陸沿岸の放流施設が壊滅して以来、捕れなくなった。今は、調理できずに捨てていたフグとか南の魚が揚がっている」
産直グループの目玉商品だったサンマは、震災前に1シーズン5000ケース、最盛期には1万ケースを発送したと、加工場は目の回る忙しさだった。しかし今年は「水揚げが少し戻ったが、全部で2000ケースくらい。小さい細いサイズで、脂がじゅうじゅうというサンマの醍醐味からは…。漁場の海に餌が乏しいようで、待っていても大きくならない。沖の公海で外国船が乱獲する影響もあるのかな」。
地元感、手作り感あふれる工夫
サンマの魅力を補う新たな魚はまだない、と上野さん。だから加工場では、目の前の合足漁港に揚がった魚からも「田舎らしい加工品のギフトを考える」。地元感、手作り感あふれた目玉づくりを、住民のスタッフが日々工夫しているという。
大船渡が養殖発祥地のホタテ、人気のタコやウニ、久しぶりにイカが揚がれば塩辛、マンボウの珍味も。ちなみに今月の「おまかせセット」は、ホタテとタコ、ボイルしたアワビの詰め合わせ。これからの季節は、カキと加工イクラも加わる。
巨大な要塞のような防潮堤、そして、産直グループの加工場の手前に広がっているのは、この冬にも青々とした畑。そこで上野さんが野菜も育てており、そばの道路わきには無人直売所がある。「商売のつもりじゃなくて、合足の農家の人たちが高齢化して自分ではもう耕せず、私が引き受けたんだ。それを皆、無償でいいからと喜んでくれた。昔も今も変わらず、野菜や魚をあげたり、もらったりの毎日だ」
震災からよみがえった南三陸の和やかな人の輪、海の幸に支えられた暮らし。そんな浜から発送される新鮮な産直のパックを、筆者も楽しみに待っている一人だ。
HPはこちら:産直グループ有限会社 (nnet.ne.jp)
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