【写真連載:女川ぐらし】アマチュア写真家の福地裕明通信員が、単身赴任先の宮城県女川町での暮らしを写真で綴る連載「女川ぐらし」。女川町のいまの日常風景を、生活者目線でお届けします。
【福地 裕明】私が女川に異動を希望したのには、なぜ復興のスピードが(他の被災自治体と比べて)早いのかを知りたいというのもありました。まず、誰からアプローチしようかとコンタクトを取ったのは、わずかながら接点があった佐藤敏郎先生でした。敏郎先生の存在を知ったのは震災後の報道で、女川中学校の教諭として、そして、大川小学校に通っていた娘さんを亡くしたご遺族として奔走する姿を見たことがきっかけでした。
女川で多くの方々と触れ合えたきっかけは…
敏郎さんには不思議なご縁もあったんです。実は、私の先祖のルーツが北上川沿いの大川小学校の学区にありました。大川小のできごとが他人事とは思えず、真相を究明すべく活動されているご遺族の話を聞いてみたいと足を運ぶうちに、敏郎先生にお会いすることができ、話を伺ううち、私のルーツの地が敏郎さんの地元だと知ったのです。
そんな流れから、敏郎先生に「今度女川に勤めることになったのでよろしくお願いします」と連絡したところ、「『大人のたまり場』で待ってます」と誘いを受けました。どうやら月に一回、もとヤングたちが集ってフォークソングなどを歌っているようで…。
「大人のたまり場」をかいつまんで紹介すると、2002年、敏郎先生が町の生涯学習課に勤務してた際に「中高年が集まって取り組める活動を」とはじめたもの。「歌声喫茶」のように参加者が一緒になって歌う以外にも、敏郎先生を講師にギター教室などもされていたそう。震災によって活動は一時中断したものの、当時の仲間らが「またやろう」と月一回、「カフェごはん セボラ」さんで活動していました。(参考文献:女川町まちづくり推進協議会事務局発行「まち活通信」Vol26 2016年12月発行号)
「大人のたまり場」で縮まった、まちの人たちとの距離
時を同じくして、敏郎先生がD Jをつとめる「Onagawa Now〜佐藤敏郎 大人のたまり場」の収録に「通りすがり」としてお邪魔することに。私が女川に赴任した頃は既に「女川さいがいFM」は閉局していたけど、引き続きトレーラーハウスを改造した簡易スタジオで番組収録は行われていました。ちょうどその日は「牡鹿半島フォークジャンボリー」と称して、懐かしきフォークソングを敏郎さんらが弾き語りしていたんですね。そこにいらしていた先客が、リアル「たまり場」の会場である「セボラ」の堂賀光枝さん。このお二人に挟まれたことが結果して「たまり場」の参加につながっていったのでした。
イヤイヤ参加したではありません。懐かしい歌は大好きだし、実は学生時代に吉田拓郎が大好きな後輩がいて、仲間うちで似たようなことをやっていたので、違和感は全くありませんでした。老若男女が集い、1960〜70年代を中心に流行った曲をアコースティックの響きにあわせて歌うさまは本当に心地良いものでした。とある音楽番組で歌手の森山良子さんが「みんなで歌ったら、それがフォーク」と仰っていましたが、「たまり場」はまさにそんな存在でした。
こうして、このお二人に初っ端からお世話になったおかげで、女川で多くの人々と関われることができたと思っています。小さいまちって普通、他所から来た者を受け入れない(受け入れるのに時間がかかる)んだけど、女川(たまり場)はそうじゃなかった。いきなりやって来た私という「異邦人」を熱烈に歓迎してくれたのです。復興関連で報道される女川の人たちってどちらかというと男性が多かったけど、女性陣(お姉さま方)も負けず劣らずバイタリティ溢れる方々だと「たまり場」で身を持って感じることができました。よく言われるところの「女川の魅力は『ひと』だ」というフレーズは間違いないと今も確信しています。
「たまり場」で免疫ができたおかげで、その後は、「かぐら」や「ガル屋」「izakayaようこ」などに顔を出すうちに、まちの人たちの輪の中に気軽に入れるようになりました。「還暦以上は口を出さず」といったエピソードの裏話など、復興の取り組みを直に聞くこともできたり。より一層、女川の人たちの前向き感(裏を返せば、後ろを向いていても何も始まらない)とか、他所からやって来る人たちを受け入れる度量の広さ(外から受け入れなければ何もできないほど壊滅的だった)などを肌で感じられました。震災をきっかけに生じたさまざまな「化学反応」が、今もなお進化し続けていることを目の当たりにできて、とてもラッキーだったと思っています。
取材相手「べリーナ」との奇妙な縁
そんなことをしてるうちに、「自分も女川のために何かしたい!」と思い立つようになり、TOHOKU360に女川関連のインタビュー記事を3本掲載させてもらうことができました。中でも、NPO法人「アスヘノキボウ」の岩部莉奈さん(ベリーナ)への取材(2021年3月20日掲載)には、嬉しくも驚きの後日談が3つあるんです。
一つは、私の記事が掲載されてまもなく編集長の安藤さんが女川に出張された際に、岩部さんと実際に対面されたこと。その場に立ち会えなかったのは残念だったけど、「こういう出会いもあるのか〜。取材して良かったなあ」と素直に感動しました。
二つめは、「記事を見ました。会いたかったです」と、インターンで女川を訪れた女子学生がベリーナに声をかけてくれたこと。後日、本人から「驚きました」と教えてもらったんだけど、自分の書いた記事が誰かの行動を促すきっかけになったことが、めっちゃ嬉しかったです。
三つめは、これが一番の驚きだったんだけど、ベリーナと一緒に仕事したこと。彼女が勤めるNPO法人「アスヘノキボウ」が町から委託された活動人口増加に資する動画制作を、ひょんなことから有志のひとりとして協力することになったんです。まさか、取材する側とされる側が同じ仕事をすることになろうとは思いもしませんでした。
2021年の初夏から、コロナ禍にもかかわらず新たなチャレンジを行っている女川のホットな9件の取り組みを取材。同年度末までに計3本のYouTube動画「ONAGAWA enJOINUS(オナガワ・エンジョイナス)」をアップすることができました。彼女には取材・インタビューはもちろんのこと、ナレーションもお願いしちゃいました。おかげさまで、地元新聞に取材されるなど反響は上々のようです(自慢じゃないけど、外注せずに自前で制作してますからね。一緒に携わってくれた職場の後輩たちにも感謝!)。
ベリーナを取材していなかったら、このコラボレーションは実現していただろうかと、ふと考えることがあります。彼女との接点がなければ、そういった話が降ってきても実現しなかったり、実現までに相当の時間を要したのかもしれません。そう考えると、この「縁」は必然だったということなのでしょう。
2022年度も「女川を元気にする」動画の制作は継続するとのこと。彼女と私の後輩たちに任せ、行く末を見守っていこうと思っています。もちろん、心配はしていません。後輩が育ってきたからこそ、私が「そろそろ潮時だ」と女川を離れてもいいかなと思ったわけだから。(続きます)
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