【寺島英弥(ローカルジャーナリスト) 】「高齢化率68.6%」。衝撃的な数字は、全国の市町村で一番、高齢化率が高くなった福島県飯舘村だ。2020年国勢調査に基づく65歳以上の村内居住者の割合で(村では住民基本台帳に依る同様の数字として59.4%=5月1日現在=を挙げる)、2011年3月の東京電力福島第一原発事故と全村民避難から12年を経過しながら、居住者は原発事故前の4分の1に減り、高齢者の村になった現実を映す。
今月初め、同村比曽で行政区長を務める農家、菅野義人さん(71)を訪ねた。筆者が原発事故の翌年から取材の縁を重ねる人で、17年春の避難指示解除後、除染による土の剥ぎ取りで地力を失った農地の回復に取り組んできた。背負う難題はそれだけではない。住民の多くが帰還しない地域をどう再生できるのか。村の今を前後編のルポでお伝えしたい。
原発事故前の85戸が今では20戸に
山あいの飯舘村を訪ねたのは、新緑輝く五月晴れの今月2日。高い放射線量から村で唯一、「帰還困難区域」に指定されていた南部の長泥地区が避難指示解除となり、地区に通ずる道々の通行を制限していた鉄のバリケードが撤去された翌日だった。
道沿いの農地には、緑肥にする黄色い菜の花で埋まっていたり、田植えのための水が引かれたり、代かきが始まっていたり、まだ少ないが農業再開の風景が点在していた。ただ、原発事故の風評から飼料米作りの水田が大半だ。目指す比曽は、長泥に隣接し放射線量も比較的高かったため、環境省による農地の除染と持主への返還が他地区よりも遅れ、菅野さんが自宅の農地の引き渡しを受けたのは18年秋だった。
標高約600㍍の比曽の盆地は原発事故前、スイスの谷のような美しい田園があり、冷害と闘いながら先人が耕した水田が広がっていた。原発事故後は荒れ野の風景に変わり、さらに除染工事に伴い、放射性物質を含む黒い除染土袋を大量に積み上げた広大な仮置き場が居座った。復興を妨げ、住民の帰還意欲もそぐような存在だったが、この日見た比曽の風景から仮置き場は消え、ようやく双葉町・大熊町にある中間貯蔵施設(県内で出た除染廃棄物を30年間保管する)へ搬出されたと分かった。
原発事故前、この高冷地で10㌃から11俵(660キロ)を収穫した菅野さんの水田も、除染土の仮置き場の下に埋もれた。農地に戻す工事はこれから年内いっぱい掛かるという。政府や村が原発事故からの「復興」のスタートとした避難指示解除から6年も経つが、比曽ではいまだ住民の生業復活への土台も整っていないのが現実だ。
かつての水田地帯をぐるりと囲んで集落が連なり、高台の新しい白壁の家が菅野さんの自宅だ。全村民避難後は二本松市内で妻と暮らしながら帰還を強く志し、比曽の行政区で共に地域づくりをした仲間らと古里に通って、専門家らの支援を得ながら線量調査や独自の除染活動を試みた。自宅も避難指示解除前の16年、曽々祖父が建てた築約百年の家を解体し、先祖の歴史を受け継ぐ思いを込めて古い柱や梁を残して改築をした。
「比曽は原発事故前、大半が農家で85戸あった。いまは20戸になり、そのうち帰還した住民は、年配の夫婦か単身の家が18戸。避難生活の中で、どこも三世帯同居が普通だった家族がばらばらになり、この10年余りで高齢になった親世代が戻った。また新規移住者も2戸ある。そのうち農業をしているのは5人だけ。ハウスの花栽培が3人、コメ作りを始めた人も1人いる。私は一から土づくりをしてきた」
「砂漠」となった農地回復の苦闘
「砂漠になった」。18年秋、菅野さんが除染後の農地を返された時の印象だ。田畑や牧草地は環境省の除染工事で重機に表土を剥ぎ取られ、さらに応急の地力回復工事(カリウムなどの基本肥料、放射性物質の吸収抑制効果がある土壌改良材ゼオライトを投入)を施され、山砂が分厚く覆土された。砂漠の風景に変わった村に多くの農家は途方に暮れ、原発事故の風評も重く、営農再開への気力を奪われた。
菅野さんの先祖は1607(慶長12)年、旧相馬藩領の比曽に移住した武士と伝わり、代々が肝入(名主)を務めた。天明の飢饉で旧比曽村(長泥なども含んだ)が91戸から3戸に壊滅したと伝わる苦難の折も、先祖は踏みとどまり復興の鍬を振るった。その魂は自宅裏の社に祀られており、菅野さんは常に手を合わせてきた。それゆえ砂漠となった農地の風景に絶望することなく、模索したのが失われた土の回復だった。
原発事故前、飯舘は畜産の村で約3000頭の牛がいた。菅野さんも稲作とともに和牛36頭を飼い、子牛の繁殖を営んだ。「大冷害があった80年の夏、稲が壊滅した中でも青々と茂る牧草を食べる牛たちに農家救われた」と回想する。牛舎から出る稲藁の堆肥を土に還す営みが村の農家にはあったが、その自然な循環も原発事故で断ち切られた。菅野さんは除染後に返された農地のpH(酸性、アルカリ性の強弱)や保肥力、窒素、カルシウム、リンなどの土質分析から始め、自らも先祖の歩みをたどった。
筆者が訪ねる度に取材した場所は、裏山を切り開いた約2ヘクタールの採草地。やはり表土を剥がれ、石が無数に露出しており、1㍍を超える大石がざらだった。菅野さんはトラクターで、除染作業の重機で踏み固められた土を破砕し、深耕し、反転させ、石の撤去に挑んだ。掘り起こした大石には赤い目印を付け、バックホー(小型ショベル車)で1つ1つ外に捨てる作業を、氷点下10度になる冬も続けた。
そのころ筆者が取材ノートに書き留めた、菅野さんのこんな言葉がある。
〈比曽の始まりは開拓だった。大きな石は懸命に割って小さくし、木の根っこを起こし、途方もない時間が掛かったに違いない。私が動かした一番大きな石は、長さ2㍍、幅50㌢、厚さ40㌢あった。浅い所にあったので、機械で脇を掘り、少しずつ引っ張って、土手に押し上げた。丸一日仕事だった。それでも、いまは機械の助けがある。やる気さえあれば、暑さ寒さを我慢すれば、何とかなる〉
農家が成し遂げた「復興」の風景
孤独な作業で一番つらかったのも、石との格闘の時期という。「わずか4、5㍍しか作業が進まない冬の夕暮れなど、『俺にはできない』と諦めかけたこともあった」。外へ出せない大石は深く掘って埋め、細かな石は手で運んだ。そして、いくつもの地点での土壌分析から、それぞれの状態に適した改良の処方箋を考えた。病気をした人に一度にたくさんの栄養剤を与えても体力は戻らないように、石を取り除いて深耕した農地を再び健康に、しっかり肥やしていくための方法があった。
石灰散布などとともに、20年5月から緑肥となる燕麦、ヘアリーベッチ、ヒマワリなどをまいて育て、8月中旬にトラクターで細断し、すき込んだ。そして、9月には2回目の燕麦の種まきをし、11月下旬から12月上旬に再びすき込みを行った。先祖の労苦を追体験する土の再生の作業は、自宅の周りの採草地、畑の計6㌶におよんだ。21年3月にはやっと、「少しずつ土の色が変わってきたのが分かる。これを3年、5年をかけて、さらに深耕とすき込みを重ねる努力が要る」という言葉が聞かれた。
そして23年5月の今回も、菅野さんは「家の裏の採草地がどうなったか、見に行こう」と筆者を案内してくれた。里山の坂を登った新緑の雑木林の向こうに、ぱあっと、まぶしく緑の光が揺れる風景が目の前に広がった。採草地(1.8㌶)いっぱいに伸びたしなやかに伸びたライ麦と、紫色のかわいい花を咲かせるヘアリーベッチが爽やかな風になびいている。
「最初のころは、ヒマワリも麦も生育がでこぼこで不揃いだったり、雑草に負けたり、花の咲かないままのヒマワリがたくさんあった」
「8月になると、見渡す限りヒマワリが満開になるよ。帰省する孫たちのために去年から『ヒマワリ迷路』を作っているんだ」
「春、秋を合わせて今が5回目の作付けになるが、きれいに伸びがそろうようになったのが3回目くらいから。農業機械も壊したり、手間が掛かっただけ、土が変わってきたのだね。こういう景色になるのが、農家としては当たり前なのだが」
地力を奪われ、酸性に戻った土を変え、石との闘いに勝った菅野さんは、「どんな作物も育てられる、使いやすい農地に戻せた。ひとまずは完成だ。被災地全体から見たら小さな場所かもしれないが、これが私の『復興』なんだ」と笑顔を見せた。意志の力で苦難に立ち向かい、その手で「希望」を生み出した農家の努力に、天明の飢饉から先人の成し遂げた復興を、筆者も目の当たりにした思いだった。
「でも、その間に私は71歳になった」。原発事故から12年が経った今、菅野さんは自らの残る体力や、病気をし介助が必要な妻との暮らしを考え、かつての稲作や畜産などを再開するつもりはないと言う。家業の後継者である長男は、家族と共に北海道に避難し、地元の町の受け入れ支援を得て、やはり牛を飼い繁殖を営む。「再生したこの農地を、息子や孫がいつか帰る日のために大切に守っていく」
菅野さんには、しかし、まだ安堵はない。行政区長としてのもう一つの難題との闘いが続いていた。 (後編に続く)
*TOHOKU360で東北のニュースをフォローしよう
X(twitter)/instagram/facebook