【東北異景】松島の知られざる霊地「雄島」をゆく

写真企画「東北異景」

第5回 : 松島の知られざる霊地「雄島」をゆく(宮城県松島町)

 江戸時代から日本三景の一つに数えられ、国の特別名勝にも指定されている松島。大小260余りの島々が織りなす多島海の景観に魅せられて、現在も多くの観光客が訪れる東北有数の観光名所だ。遊覧船で島巡りを楽しみ、瑞巌寺や五大堂などを回るのが一般的なコースだが、すぐ近くの雄島まで足を延ばす人は少ない。雄島は瑞巌寺の「奥の院」とも称される霊地で、松島の地名の発祥地という伝承も残されている。【写真・文:佐瀬雅行(写真家)】

此岸と彼岸をつなぐ島

 JR仙石線の松島海岸駅から国道45号を横断し、松島水族館の跡地を通りすぎる。切り通しの道を進むと、やがて目の前に朱塗りの渡月橋と松に覆われた雄島が現れた。雄島は南北200㍍、東西40㍍の細長い小島で、かつて島内には108の岩窟があったといわれ、今も50ほどが残っている。中世から陸と海の狭間にある此岸と彼岸をつなぐ島と考えられ、諸国から集まった僧が修行に励む霊場だった。

雄島には長さ約23㍍の渡月橋で渡ることができる。東日本大震災の津波で木造の橋が流出。2013年7月に鉄筋コンクリートで再建された(佐瀬雅行撮影)

渡月橋を渡り、外縁の道を左に辿る。岩を穿った短い隧道を抜けると岩窟のある崖に囲まれた空間に出た。ここは長治元(1104)年、伯耆国(鳥取県)から雄島に渡った見仏上人が修行した見仏堂(妙覚庵)の跡といわれる。見仏上人は12年間にわたって雄島に籠もり、法華経六万巻を読誦して法力を得た。その名声は京の都まで届き、鳥羽天皇から松の苗木千本を下賜されたことで雄島は千松島と呼ばれ、これが松島の地名のもとになったと言い伝えられている。

渡月橋を渡り終えると、岩窟に刻まれた石仏が目に飛び込んできた(佐瀬雅行撮影)

祈りに満ちた石窟の空間

 見仏堂跡の南側、一段高くなった場所にも岩窟が並び、壁面には五輪塔や卒塔婆、法名が刻まれている。凝灰岩や砂岩などの脆い岩質とはいえ、これだけの岩窟を掘るには長い年月と相当な労力を必要としただろう。静寂に包まれた岩窟と対峙すると、時間を遥かに遡って周囲に祈りが満ちたように感じられる。経文を唱えながら一心不乱に鑿を振るう修行僧の姿が幻のように浮かんできた。

見仏堂跡に続く隧道。壁には鑿の跡がくっきりと残る(佐瀬雅行撮影)
岩窟に囲まれた見仏堂跡に足を踏み入れた途端、周囲の空気が一変した。時空を超えた空間に身を置いている錯覚に襲われる(佐瀬雅行撮影)

数知れぬ修行僧の厳しい修練のあと

 島内を巡る道の傍らには、さまざまな石碑が点在している。死者の浄土往生を願って建てられた板碑や墓碑。雄島は歌枕としても有名で、詩歌を刻んだものも多い。芭蕉と曾良も『おくのほそ道』の途上で訪れた。島の南端、六角形の覆堂には奥州三古碑の一つ「頼賢の碑」が納められている。弘安8(1285)年に妙覚庵の庵主となった頼賢は、22年間島を出ることなく見仏上人の再来と仰がれた。碑は弟子が師の徳を偲んで建立したもので、国の重要文化財に指定されている。見仏上人や頼賢だけでなく、雄島では数知れぬ無名の修行僧が悟りを求めて厳しい修練を積み、死者の成仏を願う巡礼者も絶えることはなかった。

岩肌を覆う木の根が歴史を感じさせる(佐瀬雅行撮影)
見仏堂跡の南側にも岩窟が連なり、五輪塔や墓石が安置されている(佐瀬雅行撮影)

「もう一つの松島」の姿

東日本大震災が起きる前の2009年にも雄島を撮影したことがある。津波の影響だろうか、岩窟は朽ちてきているように思える。松くい虫対策で伐採された老木も目にした。一方で震災前よりも観光客は確実に増えている。観光地の喧騒を離れ、霊場の島・雄島を訪れれば松島のもう一つの姿を知ることができる。

壁面に法名などが刻まれた岩窟も風化が進んでいる(佐瀬雅行撮影)
道の傍らに置かれた石仏や板碑が霊場の島を実感させる(佐瀬雅行撮影)
島の南端に「頼賢の碑」を収めた覆堂が建つ(佐瀬雅行撮影)
海に向かって供養碑が並ぶ。雄島には中世から火葬骨を納骨する習慣があった(佐瀬雅行撮影)