被災した町内会が自ら編集した「復興5年史」発行 仙台・南蒲生

 東日本大震災から丸5年が過ぎ、時間の経過と共に震災の記憶が薄れていってしまう中、仙台市の東沿岸部に位置する宮城野区南蒲生(みなみがもう)町内会では、これまでの復興の過程を後世に残そうと、町内住民が中心となって『南蒲生復興5年史』を作成した。復興は、まだ道半ば。記録誌の編さんは、次の一歩を踏み出す決意表明でもあるという。【葛西淳子/東北ニュースクール】

原稿を確認する編集委員の皆さん。制作期間は、3月から9月までの約半年にわたった=2016年9月、南蒲生町内会集会所(葛西淳子撮影)

復興の今を伝える

「震災からこれまでお世話になった人たちに、南蒲生の今を伝えたい」。編集委員たちが復興5年史に込める思いだ。制作には、町内の編集委員8人のほか、ライター、デザイナー、カメラマンがチームを組んで支えた。

5年史をつくるきっかけは、中越地震を経験した旧山古志村への視察だった。2014年7月町内会有志が、震災メモリアルの拠点「中越メモリアル回廊」を見学した時、各地域で住民たち自ら震災を語り継ぐ努力をしている姿を目の当たりにして、震災を伝える取り組みの大切さを実感したのだった。

震災から5年の節目に、自分たちが歩んできた軌跡を後世に残そうと、自らの手で5年史の編集に取り組んだ。表紙には、記憶をつむぐ風景をイメージし、昔から仙台平野にみられる風景である「居久根(いぐね)」とよばれる屋敷林が描かれている。中を開くと、住民から集めた写真で5年間の出来事を綴ったフォトコラム。町内の方々11人へのインタビューからは、震災発生から復興に向けて歩んできた5年間の思いが伝わってくる。

原風景を求めて

南蒲生の集落と、周りに広がる田園風景=2016年5月、葛西淳子撮影

南蒲生町内会は、2011年の東日本大震災大津波で甚大な被害を受けた地区である。海からの津波と、七北田川を逆流し河川堤防を越えた波が合わさり、同町内会によると波の高さは4メートルを超えた地点もあったという。多くの尊い命が奪われ、家屋の倒壊により住まいや暮らしの営み、ふるさとの原風景までもが一瞬で失われた。

震災前は、240世帯の住民が暮らすのどかな田園地帯だった。震災後、一時危険地域に指定され現地再建も危ぶまれたが、幸いにも現地再建が可能となり、現在、190世帯が南蒲生に戻って生活を再開している。地区内には避難タワーが2016年中に完成する。7.2メートルの海岸堤防や県道塩釜亘理線のかさ上げ工事も始まった。着々と復興が進んでいるように見える。

南蒲生地区も含め仙台市沿岸部全体の人口は減少し、今後増加は難しい。一方で、海水浴やサーフィンなど海のレジャー基地として注目される地域でもある。安全に海で遊べる環境を整えることが、この地区の復興には欠かせない要素となる。住民たちは、震災前まで南蒲生で培ってきた生活文化を受け継ぎ、海をのぞむという立地条件を活かしたまちづくりを模索している。

南蒲生町内の様子、写真奥が海岸。かつては、松林の防風林に守られていた。=2016年5月南蒲生集会所前(葛西淳子撮影)

復興の満足度を問う

『南蒲生復興5年史』を編集する吉田祐也さん(写真右)=2016年9月南蒲生町内会集会所(葛西淳子撮影)

復興の満足度は「10点満点で、5くらいかなあ」。編集委員の吉田祐也さん(32)は言う。吉田さんは、これまで町内会の年長者とともに復興まちづくりを推し進めてきた一人。「震災後、町内会の住民同士の結びつきが強まっただけでなく、外部から様々な支援してくれた人々とのつながりを得たことは、大きな財産となった」と語る。「5年が過ぎてもまだまだ、沿岸部の安全安心は確保されていませんし、震災を伝える仕組みも整っていません」残る課題は、これから時間をかけてつくりあげていく覚悟だという。

「5年史が完成し、これから住民の希望や思いを形にしていくための第一歩が始まった思いです」と吉田さんは、さらに先を見据える。

「南蒲生復興5年史」は2016年9月30日発行。A4版カラー刷り本文60ページ。赤い羽根共同募金会の助成を受け1000部作成した。町内会全戸に無料配布するほか、せんだい3.11メモリアル交流館(仙台市若林区)などで配布している。

完成した「南蒲生復興5年史」(葛西淳子撮影)