【寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】東京電力福島第一原発事故から13年後の今も帰還困難区域となっている福島県浪江町津島地区。責任ある国と東電を相手取り、事故前の環境に戻し「ふるさとを返せ」と裁判を続ける避難中の住民たちの声を、このほど現地で聴いた。仙台高裁の裁判官たちの現場視察で、原告の一人として荒れ果てた家を案内した石材業の男性は、「ふるさとは、お金でなど換算できない。避難先で無念のうちに亡くなった仲間も多い。この現状を見てほしい、終わりになどできない」と訴えた。
御影石の玄関柱の家、荒れて獣のにおい
末永一郎さん(68)の家と仕事場は、阿武隈山地にある浪江町津島地区の北部、飯舘村に近い手七郎地区にあった。標高約600メートルの色づく山林を縫う県道沿いに、大きな瓦屋根の上に松などの木が生えた家屋と、がらんどうになった石材の作業場が並んで眠っている。「末永石材工業取締役」の名刺の住所は中通りの大玉村。避難先で再起し、現社長の長男と共に新たに商売を開拓してきた奮闘の証だ。
2011年3月の原発事故で9550㌶の緑豊かな地域を原発事故で汚染され、約450世帯・1400人の全住民が避難。帰還困難区域とされて帰れず、家々は草木に覆われている。「奪われた人の絆と自然の恵み、ふるさとを返せ」と650人の住民の原告団(今野秀則団長)が2017年、全面除染しての原状回復などを求め国と東電を訴えた。一審で損害賠償を認められたが原状回復を避けられ、控訴審が21年9月から仙台高裁で続く。
二審を担当する仙台高裁の裁判官3人が現地を訪れて原告・住民たちの説明を聴く「現地進行協議」が10月18日にあり、巡回した視察先の一つが末永さんの家だった。記者たちに許可されたのは、裁判官への説明が済んだ後の当事者への取材。そこで、白い防護服姿の末永さんは「裁判長らに家の中に入ってもらい、ありのままの状況を見てもらった。立ち込める獣のにおいも感じてほしかった」と語った。
磨かれた御影石の柱がある玄関は大きな破風のある豪壮な構え。普通の二階分の高さはある平屋の母屋の屋根には「三つ巴」紋の入った瓦。吟味して建てたという家に上げてもらうと、中には、あらゆる家財道具が散乱した惨状が広がる。「動物が入り込んで荒らした」という。玄関にはたくさんの靴、廊下には衣類が広がっており、13年前の避難時の慌ただしさを物語っていた。動物のふんらしいものも見えた。「この地区は33世帯あり、私はこの3月まで区長だった。家にカラオケルームを造り、住民や石材の職人の交流の場にしていたんだ」と末永さんは懐かしんだ。
母屋の隣に作業場があり、切り出された原石の塊が周りに積まれたまま。内部の機械類はもうないが、「避難中に銅のケーブルが盗まれ、1800万円の被害だった」。墓石の完成見本が立つ以外は、削られた石の破片が積もっているばかりだ。
開拓者の3代目、避難先で石材業を続け
13年前の震災、原発事故では約8000人の浪江町民が山あいの津島に避難し、住民は受け入れ支援に当たった。原発立地自治体の双葉町、大熊町は事故発生を東電から通報され、即日住民をバスで避難させたが、浪江町には東電、国、県から連絡も避難指示もなかった。その後、第一原発の水素爆発をテレビで知った馬場有町長(故人)が15日朝、独自判断で全町民の避難を決めた。末永さんは手七郎地区の行政区長を務め、家族だけでなく、住民を安全に避難させる連絡調整にも追われた。
(隣接する中通りの)二本松市の体育館にひと月、会津の北塩原村に4カ月、8人家族で避難した後、町が二本松に設けた仮設住宅に移った。「そこで2年暮らしながら、家業の後継者の長男と、震災で倒壊した墓石を直す仕事をして回った。食っていかなきゃならなかった。津島の人が多く集った大玉村に家を建て、会社の新しい事務所を開いた。それから10年で、住宅やビルの外壁の仕事も広げてきた」
離れ離れになった手七郎地区の33世帯の住民とは、町と避難先をつなぐ連絡を担い、年に一度、行政区の総会も催した。だが、「年を取って70~80代の人が多くなり、亡くなる人も増えた。最近は10人ほどしか集まらなくなった」と末永さんは言う。「❝地域の復興❞と口では言えても、皆、いつまで体力が持つか。私も3年前に妻をがんで亡くし、それをきっかけに、会社も息子に代替わりしたんだ」
末永家は、戦前に祖父母が小高町(現南相馬市)で炭焼き業者の下で働く焼き子をし、国策の戦後開拓で手七郎の山林に入植した。「祖父は三男坊だった。戦前に多かった小作農の次男三男は一生、冷や飯食いとされた。国策の満州(中国東北部)開拓に身を投じて、敗戦で命からがら引き揚げ、また津島の山に開拓に入った人も多い。人力だけで木を伐り、根を掘り起こし、とぐわ、まんのうで耕して」
訴えているのは、切実な心の問題
元々の津島の人々は、そんな新住民たちを差別なく受け入れ、四季の自然の幸を分かち合いながら、共に助け合って生きる地域の伝統をつくったという。その絆が、住民の半数近くが参加した「ふるさとを返せ」裁判の原告団につながる。
父祖の努力で田んぼ90㌃、畑1.5㌶が財産となったが、冷害常襲地で、農業だけでは食べられなかった。「私は中学を卒業して、地元を出て鉄筋工になって働いた。オイルショックで仕事がなくなり、誘われた津島の石材工場で技術を覚えて、21歳で独立した。ここは『掘れば御影石が無尽蔵』という産地。だが、原発事故があって、『福島の石はもう売れない』と言われた」。末永さんの家の近隣には、津島の魅力に引かれた新しい移住者たちもいるが、その家々も廃屋同然に眠っている。
この日の現地進行協議では、原告団の住民が13年に及ぶ避難先の生活の苦労、帰れないままのわが家と故郷への思いを裁判官たちに訴えると、報道陣と同じく同行した東電側の弁護士らから、賠償金を用いて避難先の家を購入できた事実などがわざわざ「反証」のように説明され、法廷同様のぴりぴりとした緊迫感も漂った。
「東電が算定したお金を払ったから終わり…という話ではないだろう。われわれはすべてを失い、生きるためにやむなく東電の提示をのまざるを得なかった。訴えているのは住民の心の問題なんだ。避難から2カ月ほどして、郡山市の体育館で国の説明会があり、2000人ほど集まった住民に役人が『絶対に皆さんが帰れると約束します、50年掛かっても100年掛かっても』と言った。無責任な話がたくさんある」
帰還困難区域の現実に国は幕引き?
国は帰還困難区域について21年8月、「帰還したい希望の人であれば、現地の家を国費で解体し、敷地を除染し、個別に避難指示を解除する」との方針を決め、津島地区でも意向調査の上、既に工事を進め、砂利を敷いた更地が目立つようになった。回答期限を切られ、止むを得ず応じた人もいる。
また旧町役場津島支所や往時の中心部など計153㌶を集中除染し、「つしま活性化センター」(住民の交流施設)や公営住宅10棟、農業再生地などを整備した「復興再生拠点」地域も、国の復興事業として姿を現した。だが、商業施設も学校も職場もなく、現実の暮らしの場にはなっていない。その面積は津島地区全体のわずか1・6%に過ぎず、末永さんの家もその区域外にある。原告団が求めている「全面除染による原状回復」に国は応じぬまま、帰還困難区域の現実そのものに、なし崩しに「幕引き」する意図を住民たちは感じている。
それら、国が「復興」の名のもとに進める方針そのものが、住民たちと向き合い、ひざ詰めで話し合って決めたものではない、一方的なものだ―と、昨年まで9年にわたり津島の行政区長会長も務めた末永さんは怒る。「国策で造らせた原発が事故を起こし、ふるさとを汚し、すべてを奪った。汚したものは元に戻して返せ。それが当たり前でしょう。ふるさとは、お金になど換算できないんだ」
国策の責任認めぬ「6.17判決」、屈せぬ津島住民
「ふるさとを返せ」裁判の控訴審は、仙台高裁で来年には結審するのではないか、と津島住民たちの原告団、弁護団はみる。各地の避難者らが損害賠償を求める原発事故裁判は現在約30件に上るが、最高裁は22年6月17日、そのうち4つの裁判で「未曽有の災害」「想定外の事故」「対策を講じたとしても防げなかった」として、国の責任を認めない統一判断を出した。これが大きな壁として当事者たちの前に立ちはだかる。
「全国に53基の原発があり、再稼働が始まり、国は新増設も推進しようとしている。もう一度言うが、これは国策なんだ。その責任を国は負わない、というのは道理にならない。私たちの仲間には、国策の満州開拓で難民になり、津島で再び開拓民になり、さらにまた国策が破綻した原発事故で津島を追われ、避難先で亡くなった人もいる。無念だったろう。現地視察をした裁判官たちに汲み取ってほしい」
末永さんら住民たちは、裁判の最後まで訴え続けるという。
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