【角張謙吾=仙台市】伊達政宗公が基礎を築いた奥州仙台。その藩政時代に作られたという水路「四ツ谷用水」は、数年前NHKの「ブラタモリ」で取り上げられたことで印象に残っている方も多いだろう。その四ツ谷用水本流のほぼ中心に位置する仙台市青葉区八幡(はちまん)地区の住宅地を散歩していると突然、漆黒の異様な建物が目の前に現れる。
移築され「八幡杜の館」になった店舗の建物
建物の正体は「八幡杜の館」。八幡杜の館はかつて八幡町の街道に店を構えていた酒蔵「天賞酒造」の由緒ある店舗をそのまま移築したもので、天賞酒造の庭だった「中島丁公園」の一角に建てられ、古き時代の八幡地区を彷彿とさせる風情を醸し出している。アンティークな外観とモノトーンの板塀が美しく、八幡地区の歴史的風情のシンボルとなっている。
八幡杜の館によると、建物が建てられたのは文化8年(1811年)ごろと推測される。今年2020年からさかのぼること209年も前の江戸時代後期に建てられたというとんでもない建築物が八幡三丁目にひっそりと、しかもどっしりとその姿を構えているのはかなり驚きの光景だ。
中に入ってみると、1階部分は一般の方も文化活動の展示や催し物ができるスペースとなっており、2階部分は地図や写真などを展示し古き良き八幡を垣間見ることのできる常設スペースとなっている。古地図や昔の写真も多くマニアなファンにとっては垂涎ものの一品ばかりだろう。
酒造りに必要な「水」はどこに?
ふと疑問に思う。酒造工程に必要なものは「米」と「水」であるが、それはいったいどこから来たものなのか。
米については「江戸で食べられる米の三分の一は仙台米」と一時言われるほどの収穫があった仙台である。こちらについては心配はないであろう。それでは、水はいったいどこからどのように引いていたのであろうか?近くに広瀬川が流れているが、近くといってもその直線距離は約500メートルほどもあり、しかも酒造所が上にあり川が下という位置関係なので容易に広瀬川の水を利用していたとは考えづらい。それなら四ツ谷用水を利用しているのであろうかと思い調べてみるが、水路が天賞酒造付近を通っていた記録を見つけることはできなかった。さて真実はいかに?
八幡杜の館の担当者(85)に、いろいろと昔話を伺うことが出来た。
「小学校ではまちの縄張り(のようなもの)があって、隣町に行くと石を投げあってけんかした」、「土橋通りの四ツ谷用水はぼんやりと覚えている」、「泳ぎの上手いヤツは賢渕で泳いでたが下手なヤツは松渕で泳いでた」、「仙台空襲後、大学病院のところから仙台三越まで見えた」、「天賞酒造には町で唯一蓄音機があった」……。
さらに「天賞酒造は今の宮城生協八幡店のところにあって、南側の中島丁通りまでが敷地になっていてそれはもう広かった。今の中島丁公園のところには天賞酒造の大きな庭というか大きな公園があって友達みんなが丸屋公園って呼んでいてそこで鬼ごっこやかくれんぼをして遊んでたんだ。昔は山上清水(地名)からの地下水が井戸からこんこんと湧き出て庭に小さな小川が流れていたんだよ」と話してくれたのであった。
かつて流れた地下水に思いを馳せる
なるほど冊子「仙台地図さんぽ(大正元年の仙台古地図)(著:風の時編集部)」を開くと、天賞酒造の西側(上流側)に「水」に関する地名であろう「山上清水」が確認できる。(※現在の八幡五丁目付近)
2006年11月に仙台市教育委員会より発行された「天賞酒造に係る文化財調査報告書」によると、「天賞の場合は幸い敷地内に良水の出る井戸があり、創業以来その井戸の水を利用してきたとされている(中略)中でも仕込水井戸が最も重要な井戸であり、酒母やモロミを仕込むための水はここから汲み上げて使用する」と、山上清水を水脈とする井戸水を使っていたとの記述が確認できた。その後は八幡町の共同溝工事などの影響もあって2000年に山上清水は「飲料水に適さない水質である」と発表され、今では宅地造成の影響で地下水も枯れ、使われていないそうだ。
天賞酒造では山上清水から自分の敷地内に流れ込む豊富な地下水を利用して自慢の酒を造り、その酒は当時の八幡町に住むもののみならず、仙台の人々の喉を潤し心を癒していたのだろう。そんな昔の風景に思いを馳せた。
この記事はTOHOKU360とYotsuya Canalが今年2月に開いた「東北ニューススクール in 八幡町」の受講生の記事です。受講生たちが独自の視点から、歴史と伝統が根付く「八幡町」の魅力やユニークな人、活動を掘り下げて取材・執筆していきます。ご期待下さい!