【光森史孝=バリ・ウブド村通信員】1995年、神戸新聞社在職中、友人ら5人とインドネシア・バリ島のウブド村にコテージを取得し、神戸新聞社を定年退職後、住まいをウブド村に定めました。コテージ「Villa Bintang Ubud(ビラ・ビンタン・ウブド)の経営を古くからの友人のバリの人に委ね、私自身はバリ島の環境保護のための植林活動や日本・バリの高校生交流の手助けなどをしながら妻と二人で暮らしています。ウブド村の日々をつづったメーリングリスト「ウブド村暮らし通信」を発行しています。「TOHOKU360」には「ウブド村」通信員として参加、「ウブド村暮らし通信」から選んだ記事を不定期で掲載しています。
最初の写真を見てください。見知った顔があるでしょうか。スウェチさんのファミリーです。スウェチさんが孫を抱っこしています。隣りは奥さん。両サイドは長男のプトゥさんと奥さんです。
昨日、スウェチさんの家で、孫が生後3カ月を迎えた、お祝いの祭事がありました。スウェチさんの家はビラ・ビンタンとスウェタ通りをはさんで斜め向かい。ここにあるビラ・ポンドック・プルマタを経営しています。泊まられた方も多いと思います。またブントゥユン村・サクティ村の人たちで作っているジェゴグ楽団「ダマル・スンティル」のボスでもあります。ビラ・ビンタンで日・バリ交流パーティーを開く時、楽団を率いて来てくれ、演奏を聴かせ、バリの伝統舞踊を見せてくれます。ござを敷いて車座宴会になると、真ん中に陣取り、バリの歌を率先して歌い、日本の歌を参加者に催促して座を盛り上げてくれます。
長男のプトゥさんは、インドネシア芸術大学を卒業後、ガムラン・グループ指導などの活動をしています。奥さんたちはビラのレストラン経営やクッキングスクール開催に励んでいます。その長男に、長女が誕生、昨日で3カ月を迎えた祝い事があり、私たちも招待され、参加してきました。
生後3カ月の大きなお祝い
バリでは、子どもが生まれると、直後には、へその緒を首飾りでお守りにしたり、部屋の祠にお供えしたりします。そして、3カ月を区切りに行われるのが大きな祝い事なのです。村守りの僧を招き、お祈りをしてもらった後、両親に抱えられた赤ちゃんが初めて地面に足を付けます。それまでは決して地面に降ろしません。両親に支えられながら、まだ歩けませんが、一歩二歩と進み、初めて人としての暮らしに着地し、これからはしっかりと歩みますと願いや誓いを込めた儀式でした。
その後は、いつものように、宴会です。三々五々、やって来る村の人たちが、用意されたご馳走を食べながら、あちこちでたむろしながら、雑談をしています。日本のように、車座になっての宴会ではないですが、とにかくこうして顔を合せる機会が頻繁にあることで、密度の濃い村社会の絆が結ばれているのを実感します。
2枚目の写真を見てください。左に立つお坊さんに導かれ、杖を添えるお父さん、支えるお母さんに寄り添われ、地に足をつけて、数歩、前進しました。この後、前にある桶の聖水で足を洗って、お祈りを捧げ、祭事は終了しました。
その後、繰り広げられた村の人たちの寄り合いは、夜まで続いたようですが、このためスウェチさん家が用意したご馳走のうち、最高のバビ・グリン=豚の丸焼きは3頭だったそうです。
バリの命名法
孫の名前は「NI PUTU NARA SUARI=ニ プトゥ ナラ スアリ」といいます。ここで、バリの人たちの名前について、少し解説しておきます。バリの人たちの名前の最初には「I=イ」とか「NI=ニ」がついています。これは男性、女性の別で、スウェチさんの孫は女の子です。次に生まれた順に①「WAYAN=ワヤン」あるいは「PUTU=プトゥ」長男、長女です。時に、その後に「GEDE=グデ」をつける人もあります。②「KADE=カデ」あるいは「MADE=マデ」③「NYOMAN=ニョマン」あるいは「KOMANG=コマン」④「KETUT=クトゥ」とあって、その次に固有名詞がつけられて、名づけは完了です。例えば、うちの社長、ボンさんの正式な名前は「I WAYAN WIDANA」です。通称ボンさんは、ボン村の出身なので分かりやすくしているのです。
それでは、5番目以降は、どうなるのかというと、これが面白いところで、1番に戻るのです。⑤WAYAN⑥KADE・・・・と。現在はバリも少子化で、5人、6人目は少なくなっていますが、かつては、2人WAYANなど多かったのです。実は、ボンさんも5番目の子どもなのです。そして友人の間では「やん!」「で!」「まん!」などと呼び合っています。大勢の中で「ワヤンさん」と呼びかけると、あちこちで手が上がるという事態も起こり得ます。
ただ、ゆるやかなヒンズーのカースト制度が残るバリでは、これらは圧倒的多数の人たちの名づけで、上位カーストの名づけは少し違うことも記憶にとどめておいてください。