【齋藤敦子(映画評論家)=ドイツ・ベルリン】コンペのラインアップを見て、私が期待していた作品はケリー・ライカートの『ファースト・カウ(最初の雌牛)』とホン・サンスの『走った女』でした。
『ファースト・カウ』は、開拓地に初めてもたらされた雌牛をめぐる物語で、ジャンル的には西部劇ですが、それはケリー・ライカートのこと、自然と人間の共存、人種差別、資本主義経済といった現代的なテーマが組み込まれていました。とはいえ、“鳥に巣、蜘蛛に巣、人に友情”というウィリアム・ブレイクの言葉を冒頭に掲げたライカートによれば、この映画はあくまでも友情の物語だそう。オレゴンの森の中で金鉱堀り達のコックだった青年と逃亡中の中国移民が出会い、雌牛のミルクを盗んでケーキを作って大儲けするが…というストーリーを独特のユーモアを込めて描いています。ジム・ジャームッシュの『デッドマン』に近い、オフビートな西部劇です。
ホン・サンスの『走った女』は、夫が出張中の妻が女友達を訪ねて交わす会話を通して、主人公が表に出さない、心の揺れを描いたもの。ホン・サンスらしい長回しで、俳優たちのちょっとした表情の変化を映像にすくいとっていくのが見事でした。主演はホン・サンスのミューズ(女神)キム・ミニです。
期待以上に素晴らしかった映画は、蔡明亮監督の『日々』でした。蔡監督は『郊遊<ピクニック>』以降、商業映画から離れて、最近はインスタレーションなど、ビジュアルアートの方向に転じていました。『日々』は蔡監督の長年のパートナーである李康生の毎日をドキュメントしたもの。元々の企画は李康生が4年前に痛めた首の治療をドキュメンタリーとして撮るというものだったそう。その後、バンコクでラオスから来た青年に出会い、彼のパートを合体させて、今のような形になったとのことです。見どころは1カット1カット、日常生活から切り取られた時間をじっと見つめる蔡監督の視線の強さ。『日々』を見ながら、『愛情萬歳』がナント三大陸映画祭で金の気球賞を獲ったとき、蔡監督に、ラストの長回しが素晴らしかったと言ったら、「もっと長くてもよかった」と返されたことを思い出していました。あれから四半世紀、蔡監督は視線の力をこれほどまでに研ぎ澄ましてきたのでした。