【連載:大学生が取材した3.11】「3月11日に向けて記事を書こう」。震災で大きな被害を受けた宮城県名取市にある尚絅学院大学で、ローカルジャーナリストの寺島英弥さんがそんな目標を掲げた実践講座を催しました。「震災を知らない世代」といわれる若者たちが、地元名取市の被災地・閖上の語り部の女性、原発事故の心の傷を癒す医師らと出会い、取材者として話を聴き、その声を伝えるすべを学び、「わが事」と思いを重ねて記事づくりに取り組んだ力作の中から、4点をご紹介します。
【内山瑠琉(尚絅学院大学1年)】2011年3月11日に起きた東日本大震災。名取市閖上の人々は、その日襲った津波に肉親も町も暮らしも奪われた。地元で語り部の活動をしている丹野祐子さんは、義父母と息子を失った。十年余りが経った今もなお、つらい体験を多くの人に語り続けているのは、なぜだろうか。それは、「他者でなく、体験した本人にしか伝えられない」ことがあるからだという。他者の一人である私が、現地で、そしてインタビューで聴いた言葉と思いを伝えていこうと思う。
本物の話、思いだから伝わる「あの日」
丹野さんと初めて会ったのは昨年10月17日、閖上での大学の現地学習だった。あの3月11日に何が起こったのかを、語り部として一緒に現地を巡りながら語ってくれた。そこには、閖上に暮らした人々が「当たり前」の日々を失ったこと、自身も息子の公太さんや義父母を失ったつらい出来事があった。
あれから10年余り。毎年、3月11日が近づいてくるとテレビなどのメディアが、震災の悲惨さや東北の被災地の復興状況を「記念日」のように伝える。しかし、現地学習で聴いた話からは、そんな情報ではなく、生々しい悲しみ苦しみが伝わってきた。震災の当事者が語る真実の体験だからだった。
亡くなった子たちも忘れないで
だが、震災の体験を人に伝えることは、自分の人生で最もつらい記憶を掘り起こすことではないのだろうか。なぜ、丹野さんは語り始めたのだろうか。
あの日、丹野さんは閖上中学校1年生の息子公太さんを津波で亡くした。同校中では全生徒の約1割、14人が尊い命を落とした。
「10年前のあれから、すべての優先順位は生きている人にあった。それは当たり前のことだけど、亡くなった14人が置き去りにされてしまった気がした。生きている人だけにスポットライトが当たり、亡くなった子どもたちは過去の話にされてしまう」
そんな思いから丹野さんは、公太さんら「14人の応援団となった。子どもたちを忘れないでほしいから」と語った。その一人一人の名前が刻まれた、誰でも温もりをもって触れることのできる慰霊碑を遺族有志で建立し、丹野さんは自ら語り部となって活動を始めた。
話したい、震災を知らない世代にも
私は、閖上での現地学習や大学でのインタビューで丹野さんのお話を聴く機会を得た。それまで東日本大震災を、自分とはかけ離れた他人事のように感じていた。福島県出身だが、海に面していない地域に住んでいたため、地震の大きな揺れはあっても避難することはなかった。
毎年3月11日が近づくと福島でも、テレビで震災関連のニュースが連日流れる。同じ県内に住んでいるが、どこか遠い場所で起きたことのような感覚だった。「もう10年経ったのだから、悲しい話題はもういいのでは」とも思った。
丹野さんは、しかし、最後にこう語った。「10年経って元気になるのではなくて、ようやく涙をこぼせる人がいる。『終わった、復興した』ではなく、ようやく悲しい現実に向き合わざるを得ない、これから心の震災が始まるような人もいる」
震災を知らない世代が増えてきている。そんな世代にも、今まで関係ないと思っていた私にもできることは、これから震災と向き合う人、あの日の話を聴いてほしいと思っている人の語りに耳を傾けることではないのだろうか。
取材・執筆:内山瑠琉(尚絅学院大学人文社会学群人文社会学類1年)
編集:寺島英弥(尚絅学院大学客員教授、ローカルジャーナリスト)
協力:尚絅学院大学(http://www.shokei.jp/)
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