「どうして」ときかれると、いつも答えられない。だけど、話してみたいことはすぐそこにあるような気がする。ふれようとすると冷たくて、怖くて、だけど、フワッとしてもいて、湿っているような、やさしさがあって、それを言葉にして届けようとすると、枯れてしまう、渇いてしまう。一本の木。一枚の手紙。それでは、まとめるのはやめて、書いてみよう。
誰かのことを好きになって、傷つけてしまったり、傷つけられたりしながら生きるようになってどれくらい経ったのだろう。気がつけば、いつだって自分の近くには誰かがいる。そして、誰かのことを好きになることが、暮らしの中に入ってくるようになったのはいつからだろう。若い頃は誰かのことを好きになることは、暮らしとは遠く離れたものだった。だけど、年齢を重ねるにつれて、誰かのことを好きになることは、自分の暮らしとその誰かの暮らしが関わることになる。それは良いとか悪いとかではなく、当たり前のことなんだ。カーテンの色を決めることも、皿の洗い方も、部屋に花を飾ることも、コーヒーを飲むタイミングも、いつからか1人では決めることができなくなる。
いろんなことのはじまりは楽しく、刺激的だ。だけど、それが当たり前になってきた時から、どうしても自分ではない、もう1人のやり方や時間の進め方が気になって、苦しくなって、そこから逃げ出したくなる。だけど、そこから逃げようとすると、今度はなぜかそれが寂しく思えてきて、その暮らしが自分にとって必要なことに気づいてしまう。それはとても苦しいことだけど、そのことがわかることはとても大切なことだとも思う。でも、そうなると、これはもう恋愛の話ではなくなる。
誰かを好きになることはいろんなことに敏感になることで、いろんなことに繊細さがあり、いろんな感じ方を自分が持っていることを知ることだと思っていた。だけど、ほんとうは、誰かを好きになることって、いろんなことに鈍感になって、そのことだけを考えることができる、そのことだけに夢中になることができる、そういうことなのではないかと思うことがある。恋愛って、正解のないことだし、正しい恋愛っていうのもないと思う。誰かに認められるために恋愛するものでもないし、誰かに見てほしくて出かけるのでもない。だけど、どんなに秘密にしていても、どんなに隠れて会っていても、2人だけの世界ということはなく、誰かには会っちゃうし、見つかってしまう。そして、いつの間にか、いろんな人の中で恋愛をしている。もちろん、これも良いとか悪いの問題では無いけれど、ぼくは誰にも知られず、誰にも理解されず、誰かのことを好きでいたいと思う。
初めて「この人が好き」だとわかったとき(所謂、初恋ですね)、それは、よく言う甘酸っぱい記憶ではなく、その人のことを思うことは、自分のイヤラシさに気づくことであり、そして、そのことが嫉妬というとても苦しい感情につながっているんだ、と気づくことでもあった。それはそのまま性の関心へと向かい、自分じゃない誰かを求めること、心も体も求めること、そのことに満たされることがあるのかどうかをずっと考えてきた。このことばかり考えていると、やはり不安になり、誰かと話をして、共有したくなってくる。そして、実際に話をすることは、ドキドキするけれど、どうしてもうまく伝えることができないものであり、自分が満たされないこと、誰か求めることを話すことは、逆にそのことを話す誰かの、誰かを求めることを聞くことでもある。で、必ず、お互い、自分が話したかったことと少しずつずれていくような不思議な感覚を話しているで途中で、意識することになる。
恋愛していることと誰かと特別な関係であることが必ずしもイコールではないけれど、なぜか言葉にしてみたくなって、頭の中で整理したくなって、その都度自分の考えみたいなものを作りたくなってしまう。さっき正解はないとか正しい出会いはないとか書いたけど、自分にとっての答えみたいなものを探し続けているのかもしれない。どんな出会いも特別なものだけど、その出会いに言葉が寄り添うような感じになると、答えを見つけたような気にもなれる。だけど、そうなると、その関係を壊してしまいたくなったり、疑ってしまったりする。なにかを見つけた気になっているときの自分ほど信用できないものはない。
では、満たされるとはどういうことなのだろう。新しい欲望の形とか、もっと過激なことがしたいとかではなく、なんとも言えない懐かしい感じ、心も体も満たされると言うより、絶対に満たされないんだという確信のもとにだらしなく、果てしなく、どこまでも広がっていくような感覚に堕ちていくことが自分にとっては、なんにも変えがたい、生きていることを実感する瞬間なのかもしれない。満たされないということを確かめることで満たされるって言い方がなんかカッコいい感じでそれはそれで嫌ですが。。。
誰にもわからない、いや、わからないと思い込むこと。そして、そのことを言葉ではなく理解してくれる誰かと出会うこと。その出会いは一瞬だけなのかもしれない。だけど、それでもいい。その一瞬だけはただふれていたい。そして、そのふれるという行為が人と人である以上、どうしてもどこからか言葉がやってきて、ぼくに詩を書かせるのだと思う。
仙台在住の詩人・武田こうじさんによる写真と詩の新連載「もうちょっと後で光って」。TOHOKU360にて5月より、週末に掲載します。
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