【土井敏秀=秋田県五城目町】これはいわゆるニュース原稿ではありません。だってもう3カ月も前のイベントなんですから。ありゃぁ、いきなり開き直りで、ごめんなさい。謝っている割には「わたくしごと」から始めます。飛ばしていただいてもいいです。その先の講演会では、深く納得していただけます。
その講演会で話をしたのは、哲学者の内山節さん。東京と群馬県上野村の2カ所で暮らしている。「内山節著作集全15巻」「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」「文明の災禍」など、数多くの著作がある。私が初めてお会いしたのは、20年ほど前になる。友人に誘われて、山形県金山町で開かれた、内山さんの「哲学塾」に参加した。
24年間勤めた会社を辞め、秋田県男鹿半島の加茂青砂集落に移り住んで、2年経ったころだった。畑作業や海に潜るのは新鮮で楽しかったが、フリーの物書きとして作品を書きたいという、会社を辞めた「ひそかな動機」は、自分の思い上がりでしかないのを思い知らされた。「全然稼げないし、なんで会社を辞めたりなんかしたのだろう」
悪い兆候である。そんなモヤモヤしている状態で、内山さんの話を聞いた。内山さんの本は、ずいぶん前に「山里の釣りから」を読み、いいなあと思って、2冊目に「労働過程論ノート」を選んだが、数ページで挫折していた。
初めて聞く内山さんの話は、私のモヤモヤひとつひとつに、言葉を与え、心の奥にまで沈めた。実は、それらの言葉ひとつひとつは覚えていない(全くもって失礼なのだが)。でも、言葉同士が組み合わさって、しっかりと伝えてくれた。「今の暮らしを選んでよかったんだよ」。すべてが腑に落ち、心にはすっきり青空が広がった。強烈な感覚だった。
以来、毎年夏は男鹿半島から車で3時間半かけて、金山町に通うのが恒例になった。哲学塾が20回を数えたのを機に、自宅を開放して主催していた、農林業を営む栗田和則さんが塾を閉じた。それならば、と意気込んだわけではないけれど、力不足を承知で、手伝ってくれそうな人たちを思い浮かべながら、男鹿半島で開くのを引き受けた。キャンプ場、閉校した小学校などを会場に、内山さんの話に耳を傾けた。
そして今年の夏、8月27日。昨年、男鹿半島を訪ねてきてくれた秋田県五城目町の若者たち「ごじょうめ朝市大学」の仲間が、喜んで塾のバトンを受け取ってくれた。テーマが「子育てができる地域作り」だったこともあり、会場の五城目町地域活性化支援センターには若い夫婦を中心に、子供たちを含む100人以上の参加者があった。
「残酷なことを強要し、役立たずの子供にしてしまっている」日本の教育
長い前置きで申し訳ない。お待たせしました。内山節さんの今回の講演「『子どもたちの時間』について―学びあえる地域づくりをめざして―」の内容をお届けします。
―内山さんはフランスのピレネーの山村や、パリ郊外のマンテノンの農村で出会った子供たちのことから話し始めた。
「訪れたピレネーの山村は、スペインとの国境に近い20世帯ぐらいの集落で、牧畜が主要な産業です。子供たちは学校が終わると、きょうだいはいつも、一緒に手をつないでいる。サッカーしている時も手をつなぐから、早く走れない。それでも手をつないでいる。小さい子の面倒をみるのが当たり前なんです。私はそこでヨーロッパマスを釣っていたんですが、ここは夏になると、午後11時ぐらいに夜になるんです。男の子の兄弟と釣りに行ったことがあります。やはり手をつないでいて、エサを付ける時もそうだから、時間がかかる。午後8時なっても帰らない。さすがに心配になって聞くと『仕事は終わったから、僕の自由時間だからいい』。どの家でも子供たちに仕事を与えている。小学生なら5,6羽から10羽飼っているニワトリの世話、中学生になると、薪割が加わる。大した仕事ではないが、それを誇りにしている。有用な人間として生きている。その上で、自由時間の使い方を子供たちに任せる」
「それが日本では『何もしなくてもいいから、それより勉強しなさい』」と強要している。残酷なことを強要し、役立たずの子供にしてしまっている」
「マンテノンの農村はパリから電車で1時間くらい。元々は農村でしたが、農村的な郊外に住みたい人が増え、郊外住宅地になっています。そこの小さなホテルは夏休み期間中、中学生の娘が支配人に、小学4年生の息子は土、日曜日だけ、レストランのボーイさんになる。娘だけの応対でチェックインが混乱しても、親は出てこない。それでも最終的にうまくいった。ボーイさんは、担当するテーブルの客を、ドアを開けるところから、最後に見送るまで付きっきりで担当。立派なボーイさんになっていく」
「成長するのは、より多くの仕事をすること。いろんな関係を自分のものにしていくと、関係の世界が広がる。自分が有用な人間だと思える。未来のために、時間を消費する効率性だけを求めていると、有用な人間として生きていない。高校生になるために、大学生に進むために、就職するために、今の時間が効率よく生きることを強要されている。最後は『老後のために貯金しましょう』となる。未来のため、自分に一生懸命奉仕する。考え違いなのでしょうね」
「大人が自信を持って暮らしている」群馬県上野村
―内山さんは転じて、人口約1300人(うち20㌫が移住者)の群馬県上野村の暮らしを紹介した。上野村は長野、埼玉両県と県境を接し、96㌫が森林で水田はない。その森林を財産としてとらえた「地産地消」のエネルギー、経済の循環の仕組みを作っている。
「上野村の90、100歳代の人は『長男は必ずムラに残れ』の世代、7、80歳代になると『いっぺん都会に出て、選んで帰ってきた』人たち、3,40代は『このムラの暮らしはいいよ』と言っている。大人が自信を持って暮らしているんです。中学生に聞くと、全員(30数人)から『この村に住み続けたい』の答えが返ってくる。中学生の英語の授業を受け持つ外国人には条件が付いている。山村出身であること、そして修学旅行先がそのムラであること。するとムラと東京という比較だけでなく、外国の山村の視点が加わり多角的に見ることができる」
―住み続けたいムラは、どのように形作られてきたのか。
「1970年代から、天然林を有効活用するにはどうしたらいいか―を考え、最初に経済ではなく『森林という財産』で、どんな労働体系ができるか、そこでどんな雇用が生まれるかを調べる。林業に何人、木材加工に何人、家具など木工品つくりに何人、菌床を使ってキノコ栽培に何人、残りの材料は、使い終わった菌床も一緒に、チップにして暖房・電気エネルギーを作る……という具合に循環できるように考えていく。そして、ひとつひとつの労働がペイでき、赤字にならないようにする。地域電力は砂防ダムを使った小水力発電を実現させようと努力しているのですが、すでにおこなわれている木質系ペレットを使ったのと組み合わせれば、100㌫自給できるようになります。森の手入れをするように伐採して、よい森を維持していく。一方で、結みたいな労働、隣近所に何かあれば駆けつける、収入にならない労働にも携わる」
―この仕組み作りは企画するだけでなく、現実に少しずつ実現してきた。
「ペレットの工場にはコンピューターを導入しているから、IT関連産業に勤めていた移住者がシステムをつくった。ムラの財産と、最先端の技術を組み合わせて『ペレットを使ったストーブ』で暖まれる。移住者にはお年寄りたちが暮らしているそばに、村営住宅を建ててそこに住んでもらう。森そのものをある程度整備すると『観光地はもういいや』という人たちが来る。小さな企画、干し柿作り、みそ作りや冬の山で雪の上の動物の足跡を探す―などを立てます。伝統行事には、準備の段階からかかわってもらいます。夏は地元の宿泊施設は満杯で、1300人のムラに年間21万人来るんです。ムラには『漫然と、田舎暮らしがしたいから移住したい』という人は、もう来なくていいな、という雰囲気があります。はっきりと目的を持った人でないと……というふうに。最近では『うどん屋をやりたい』という17人家族が来ました」
「何が要なのかというと、社会をつくっているのは関係です。ひ弱な人間は、鳥のように空を飛ぶ能力もない、クマのように冬眠する能力もない。だから火との関係を結んだ。人と人、人と自然、過去と現在との関係、いろんな関係を増やしていく。大人たちはどういう関係を生きていくのか。その中で子供たちはどういう関係になればいいのか。その関係があれば、なんとか持続して行けそうです」
「人口1300人の上野村には高齢者問題がない」
―日本の市町村は1718。フランスは日本の20倍以上の3万6千数百(コミューン)ある。
「国は合併を進めたいのですが、住民は昔からきらってきたのです。100人から200人の規模が普通です。そこの役場には職員が1人というケースもあって、証明書の発行などの仕事をしているんです。学校、道路管理など課題ごとにNPO団体が請け負って、住民自治をしているのです。60歳代の人が中心となって、人数が少ないですから、1人で3つも4つもかけ持ちをしているわけですが、自分の役割が見える社会です。フランスは1975年ごろから、都市部の人たちの農山村移住が始まっていて、自治体の住民の3分の2が移住者になっています。なぜかというと、自然があってこそ人間的な暮らしができるという考え方が広まっているからです」
―この国の高齢化、人口減少は確実に進む。
「国や県といった大きな単位になると、数字上の問題にならざるを得ない。数字に対して対応するしかない。でも人口1300人の上野村には高齢者問題がないんです。『○○さんが最近、腰を痛めたそうだ』『△△さんは……』みたいに、個人の問題しかない」
「地域消滅は昔からあった。撤退せざるを得ない場合、日本の伝統は、生きている人間だけに執着しなかった。関係を結んだ自然が生きていた、亡くなった人たちが生きていた場所。だから自然の魂を考え、死者の魂を考える。その上で撤退すべきではないか。明治維新のころ、日本の人口は(今の4分の1の)3千万人だった。減っても成り立っていける。それでも今はまだ、ちゃんと回っていける社会をどう作ったらいいか。どんな暮らしをしたいのか―が定まっていない。既存の仕組みの中で、どのポジションを取るか―にばかり、目を向けている。『ポジション取りが人生である』みたいに。今、必要とされているのは、自分の仕事のデザイン力であり、地域で生きるデザイナーだと考えています」
五城目町の若者たちの地域おこし
以上は、私がまとめた講演要旨ですが、みなさん。内山さんが話す現場に、自分も立ち会いたいだろうな、と推察します。大丈夫です。来年の9月2(土)、3(日)の両日。カレンダーに「秋田行き」と書き込んでおいてください。内山さんの日程を確保しました。内容も場所もまだ白紙状態ですが、詳しいことが決まり次第、この「TOHOKU360」でお知らせしたいです。
ところで、今回の開催に尽力してくれた、五城目町の若者たちは、なかなかのデザイン力を持つ「愉快な仲間たち」です。たまたま、その中の1人、五城目町地域おこし協力隊の丑田香澄さんの講演「豊かな社会を築く地域づくり」を聴く機会がありました。ラッキー。彼等の軽やかに映る活動を紹介したかったので、それが一挙にできる、と考えた次第です。ラクしすぎ?では、丑田さん。よろしくお願いします。
「就職した東京の企業を辞めて仲間と始めたのは、お母さんを支援する事業でした。高齢出産が増え、実親の高齢化・就労・祖父母の介護などの理由で、首都圏では里帰り出産をする人が減っています。地域のつながりも希薄化しており、頼りの夫も仕事が多忙なことが多いですから、出産して退院すると乳児と2人きり、という状況になりがち。産後うつ率も高くなっています。そのお母さんたちのケアをする「産後ドゥーラ」という存在の養成を担っています。事業は今も続いていますが、そうした都会の子育てを目の当たりにする中で、地域の支え合いが残る地方と都会が、相互に支え合うような連携ができないかなあ、と考えるようになりました。生まれ育った秋田の田舎で子育てしたいという想いもありました。そんな中、東京でベンチャー企業を営んでいた夫と、ベンチャー企業誘致に注目し始めた五城目町との具体的なご縁がうまれ、2014年春、家族で移り住みました。私も地域おこし協力隊として採用していただき、3年目の暮らしを楽しんでいます」
「世界一こどもが育つ町」をめざす五城目町
「協力隊は私のほかに3人います。また、この2年半で30人ほどが町に移住してきました。地域に根ざして、新しい仕事をつくっていく。そんな挑戦者が集まり、廃校になった小学校を活用した『町地域活性化支援センター(BABAME BASE)』には、教育・農林業・ものづくり・ITなど多分野の『ドチャベン(土着ベンチャー)』が広がっています」
「移住者のみならず、出身者や、一度足を運んでファンになってくださった方など、ご縁やつながりを広げる活動も続けています。交流人口より関係人口、1万人が100回来たくなる場所を目指したいね、と言っています。たとえば、仲間が経営する茅葺き古民家を活用した農家民宿『シェアビレッジ町村』。みんなが主体的に関わり村を共有していこう、というコンセプトで運営され、地域の方と里帰りした村民、時には外国の方なども交えた多様な交流風景が珍しくなくなってきました。地域の高校では東大大学院や明治大学との連携授業が実施されていますが、そうした企画も、そもそもは各大学の先生が五城目に遊びに来てくださったことが最初のきっかけ。これもひとつの縁だと思います」
「みんなで紡いでいる壮大な目標に『世界一こどもが育つ町』があります。子供が学ぶには、大人も学び続ける。そんなコンセプトで町民の学びと実践の場『ごじょうめ朝市大学』という活動を続けているのですが、[四季で遊べる五城目ランド]と銘打って、既にある資源を活かしながら季節ごとの自然遊びの機会を増やしたり、多世代交流の機会を設けたいということで野外パーティーを企画する若者町民グループが現れたり。楽しみながら、仕事や地域活動に格好よく取り組む大人が増えて、その背中を見て子供が育つ。そんな草の根からのムーブメントが大きくなることできっと、人口減少や少子高齢化といった事象も悲観すべきものではなくなると思うのです。私たちは、(京都大の)広井良典教授の言葉をお借りして「人口減少=希望ある転換点」「真に豊かで幸せを感じられる社会の格好の入口」だと捉えています」
「町民の挑戦の渦が広がっている」
「私たち地域おこし協力隊にできることは、いわば繋ぐ役割かなと思います。素晴らしい理念を持って農林業経営をされていらっしゃる方がいて、その想いを仲間の1人がホームページ等で外に発信するお手伝いをしたことで、若い方々が入社し就農するきっかけづくりに貢献することができました。また、五城目は特産の1つにキイチゴがあるのですが『長年、ジャムを作ってみたかった』『ビールづくりにチャレンジする!』そんな農家による商品開発の挑戦に伴走させていただいたりもしています。実は、BABAME BASEに直近入居された新規2社は、いずれも移住者ではなく、既存町民の方による起業です。一社はキイチゴ加工会社、もう一社は子育て中のママさんによる訪問美容事業です。そんなふうに挑戦の渦が広がっていることを嬉しく感じています」
「何かをやろうとすると『あいつだけ目立って』と足を引っ張る話になりがちだけれど、そうではなく『ほう、あいつもやるのか』と地域の機運が高まっているから挑戦しやすい、と話してくれた町民の方がいました。『昔からの夢だったカフェを始める!』という方が登場するなど、これからも様々なチャレンジがうまれていきそうな予感です。これをやってみたい!というマイプロジェクトは、何も仕事だけに留まりませんし、その規模も様々です。520年続く朝市を、若者も多く集い挑戦する場に!そんな想いを持つ町民有志で『五城目朝市わくわく盛り上げ隊』を結成。既存出店者の方や役場などと手を取り合いながら、若者が挑戦し人が集うような場『ごじょうめ朝市plus+』が誕生したりもしています。どんなに小さなことでも、また難しいのでは?と思われることでも、主体性や創造力を持って取り組む人が増え、1人1人がワクワク生きる。そんなみんながワイワイつながる。そうした循環がうまれると、きっとますます元気な地域社会が広がっていく。そう感じています」
内山さんの話も、丑田さんのも、心にスウッと入り、力がみなぎってくるのが分かった。経済の右肩上がりではない、新しい地域の創造のどこかに、引っかかっていたい。そう願う気持ちが強くなる。
しかし。その一方で、こんな文章にも深く納得する自分がいる。自ら体験した、下級兵士の目で見た戦争を描く芥川賞作家・故古山高麗雄の文章である。魅かれる。
「私は、運にはカブトを脱いでいる。運も実力のうち、だとか、運は自分できりひらくもの、だとか、そういう思考は私にはない。運は、人の手に負えるものではない。私たちは、それに翻弄されながら生きるしかない。
人は偉そうなことを言い、他の動物とは格段の差のある生物なのだろうが、運に対しては無力である。人は、自分たちが、もろく儚い存在であることを自覚しながら、生かされている限り生き、そして死ねばよい。前向きに考えなければいけないとか、年をとっても生き生きと生きろ、だの、そういったことを人はいろいろと言うけれども、自分がそう思ってそうすることはいいが、他人にまでそれを強いるな。人はなにも、みんなでそろって前向きに考えなくてもよい、生き生きと生きなくてもよい、陰気に生きてもいいし、酔生夢死で終わってもいい。どう考え、どう生きるかはその人の勝手だ。だが、思うようにならないこともあるのが生物である。思いが叶わないときは諦めるしかない」(物皆物申し候)
自分がますますわからなくなってくる。