【連載:陸前高田 h.イマジン物語】東日本大震災で店舗が流出し、2020年に復活した岩手県陸前高田市のジャズ喫茶「h.イマジン」。ジャズの調べとコーヒーの香りに誘われて、店内には今日も地域の人々が集います。小さなジャズ喫茶を舞台に繰り広げられる物語を、ローカルジャーナリストの寺島英弥さんが描きます。
【寺島英弥】大船渡市碁石海岸での開業から丸7年が過ぎた2010年の2月11日、冷え込みの厳しい明け方3時ごろ。ジャズ喫茶「h.イマジン」の2階の住まいで眠っていた冨山勝敏さん=当時(68)=は、戸外の叫び声で夢を破られた。
「マスター、火事だ ~。マスター、火事だ~。マスター火事だ~」。隣のそば屋の主人が怒鳴るように冨山さんを呼んでいた。
真夜中の出火、生死の境に
「寝室に火の気はなく、煙の臭いもしなかった。さては、店のカナディアンストーブのトラブルか」と跳ね起き、階段を1階へ下りた。店内にも変わったことはなかった。ところが、窓の外のテラス側が異様に明るく、その下に積み重ねた3年分の薪から炎が立ち上っているようだった。
冨山さんは寝室に戻ってパジャマの上に服を着て、大事な書類や文庫箱を抱えて裏口から外へ逃れた。「まだ店の中に火は移っていないように見え、カウンターの下に置いていた金庫や財布、携帯電話などを取りに戻ろうと思った。もう一度、裏口の扉を開けたら、いきなり、どっという熱風煙に襲われたんだ」
カウンターはわずか4、5メートル先。冨山さんは意を決して一歩、中へ踏み込んだが、熱風煙の勢いが一層猛烈になり、命の危険を感じて断念したという。必死で転げ出ると、「寒気を吸い込んだのどがひりひり傷み、いきなりせき込んだ。苦しそうな様子に、隣の奥さんが心配してくれ、貸してくれた温かな衣類を重ね着して救急車を待った」
搬送された大船渡病院の救急治療室で、冨山さんは真っ黒な痰を吐き出し、「あと1秒遅かったら、のどの粘膜が焼けて窒息していましたよ」と担当医から言われた。「ほとんどの火災の焼死者は、そのための窒息死。1秒の差が生死を分けるんです」。不運だったのか、幸運だったのか。その答えを考える暇もなく、それから5日間の治療入院となった。
頭は「真空」状態、未練もなく
「わが新しい人生の店が燃えているのを眺めながら、頭は妙にすっきりと『真空』になっていた」
冨山さんはその後、初代h.イマジンの焼失を、こんな言葉で振り返った。
「まるで肉体も魂も何も残さず、執着も煩悩も過去もすべて消滅する自分を眺めているような…。人間の一生とは、こんなにすっきりと消えていくものなのか、と清々しくさえあった」
生死の境にあった危険な刹那、不意に舞い降りた究極の「悟り」だったのだろうか。「俺が変人、奇人、あるいは狂人ゆえなのかも」と、笑って語る冨山さんだが。
突然の火災は、警察と消防の現場検証の結果、「外側テラス下コンクリート基礎柱4本の右端柱下部が火元的焼け焦げ状態」という、火の気の全くない状況での「不審火」とされ、放火の疑いが濃かったが、結局、迷宮入りに終わった。そのことへの未練の言葉も、筆者は聞いたことがない。
この入院中、冨山さんは新しい縁を得る。新天地の7年の歴史が培った店の常連さん、「ケセンきらめき大学」などの活動の仲間が次々と病室を見舞った。その一人、陸前高田市の自動車学校の社長が退院後の住まいを心配し、同市竹駒にあった農家の空き家を紹介してくれた。そこから再起を模索する中で、陸前高田で2代目の「h.イマジン」となる旧高田町役場庁舎と出合う=連載4回「津波に消えた夢の店㊦参照=。が、その人生観は、わずか1年余り後に訪れる大津波と2度目の店喪失の苦難を重ねても、変わることはなかった。
「でもまあ、『くよくよ考えても考えなくても、まあ人生、何とかなるものさ』が、10人きょうだいの8番目に育った私の、生まれながらの人生哲学だったかも」
津波からの再建が成った2021年の「h.イマジン」で、冨山さんのカウンター談義は続いた。
古里郡山から18歳の上京
太平洋戦争が始まろうとする1941年の8月13日、福島県安積郡大槻町(現郡山市)の呉服店の一家に冨山さんは生まれた。上空を飛ぶB29の編隊の残像が、幼いころの記憶にあるという。「両親が細々と営む田舎の店で、私は男8人、女2人のきょうだいの8番目だった。勉強嫌いで、小遣いもなく、友だちとつるむのも嫌で、田や畑で一人遊んでいたよ」
姉の一人が郡山駅前の乾物屋の若奥さんになり、そのことが冨山さんの行く末を決める。その店に映画館の看板が置かれてあり、招待券をもらって、『シェーン』、『女はそれを我慢できない』、『渡り鳥 西へ』など何でも観た。ブリジット・バルドーに胸ときめかせ、ジャン・ギャバンの渋いカッコよさに憧れた。自分が何をやりたいのか―は分からないまま郡山商業高の3年生になったある日、姉の嫁ぎ先のつながりで、東京・京橋にあった大手乾物卸会社の吉川商店(合併を経て後に新菱商事)から「『金の卵』が欲しい」と就職話が降ってきた。
集団就職列車の若者たちに交じり、上京したのは1960年春。入った会社は田舎の乾物屋とは大違いで、缶詰、酒から海産物、粉類、小豆、大豆をはじめ幅広い食品を扱う大きな卸問屋で、新入社員の冨山さんは社名の入った前掛けをして丁稚奉公だった。
「深川ふ頭に艀(はしけ)で北海道発の穀類の麻袋がどんと入荷し、板を渡して1俵ずつ担いで上がってくる職人さんから受け取って、手鉤で2トントラックに積み上げる仕事の毎日。ぎっくり腰にならないコツがあったけれど、あれは本当につらかった」
「小麦粉を銀座の裏通りの和菓子屋さん、中華屋さんに配達したり、当時大ヒットしていた『チキンラーメン』(日清食品)も注文殺到で都内や横浜、大宮などに届けて回ったりした。4年目から事務職に移り、注文や出荷の伝票を帳簿に付ける仕事を1年くらいやったけれど、『俺の人生、前掛け一丁のままで終わるのだろうか』と我慢ができなくなって辞めた。そのころ、新聞を広げれば求人広告が山のように載っており、当てはなかったけれど、『何とかなるさ』と」
東京五輪ブームの中で
仕事探しの最中、新宿の街頭で「ちょっと手伝ってくれないか」と声を掛けられて、訪問セールスの商品配達を始め、当時でも1個3000円の化粧品を世田谷の高級住宅街に届けて回った。
「やる気があるんなら、販売をやってみるか」と見込まれて研修を受け、生来の器用さから、お化粧のノウハウもすぐに覚えた。大きなスーツケースに化粧品セットを詰め、「奥様方の気分を良くして売り込んでちょうだい」と送り出された。
「とにかくお金持ちの家に上がり込み、美顔術のサービスを口八丁で施し、5000円のセットを売れば、うち2000円が自分の収入になった。それを1年くらいやって、地区のセールストップになってしまい、『世の中、面白いかもしれんぞ』と思い始めた」
そのころの東京は高度経済成長期のただ中にあった。戦後の復興を象徴する東京オリンピックの開催が1964年に迫り、都内は「五輪景気」に湧いて都心改造の建設工事現場だらけになった。それを象徴したのが、外国人客の受け入れを見越した大型ホテルの開業ラッシュ。その中で「スタッフが足りない」という募集広告を、新しい時代、新しい世界に胸躍らせて当時23歳の冨山さんは目にした。(次回に続く)
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