【続・仙台ジャズノート】定禅寺ストリートジャズフェスティバルなど、独特のジャズ文化が花開いてきた仙台。東京でもニューヨークでもない、「仙台のジャズ」って何?
街の歴史や数多くの証言を手がかりに、地域に根付く音楽文化やコロナ禍での地域のミュージシャンたちの奮闘を描く、佐藤和文さんの連載です。(書籍化しました!)
【佐藤和文】本当に残念なことですが、スケール(音階)やコード(和音)の音を適当に並べても、アドリブにはならないようです。では、どうすればいいのでしょうか。結局はセンス、才能の問題と受け止めると実もふたもないので、身近なライブになるべく足を運び、ときにはインタビューの機会を利用してプロの演奏家に直接質問するなど、手掛かりを探してきました。もちろん分かりやすい回答集が簡単に手に入るわけではありません。
その点、先日、サックス奏者名雪祥代さんの教室のレッスン生による発表会に参加し、同じ門下のみなさんの演奏を聴いていてやっと分かったことがあります。それはサックスの巧拙とは別の問題です。楽器にはいろいろな表情があって、演奏者の思いや人生模様までが見えるような気がすることでした。自分のことを棚に上げる余裕もなかったのに、レッスン生のみなさんの表情を見ているだけで実に楽しかった。それぞれの課題曲に向かって準備する体験を共有している者同士の空気感は心地いいものです。またの機会を切望します。
名雪さんのレッスンを受けはじめて4、5年ほど過ぎたころ、「楽器を演奏できるようになるのは素晴らしいこと」と言われたのを思い出します。クラシックからジャズの世界に踏み入った師匠の経験がどんなものだったのか、想像するだけの知識や経験もないので、うまい会話にはならなかったはずですが、あまり先を急ぐな、もっと大事なことがある、という意味だったように思います。
実際に、ちょうど10年になる定年後の暮らしを振り返ってみると、フリーの編集者・取材者としての仕事や家庭における役割に加えて「サックス」「ジャズ」を新しい要素として取り入れた意味はとても大きい。好き嫌いや、向き不向きもあるので、あまり乱暴なことは言えませんが、特にシニア向けのカルチャーセンターに通っているかのようなジャズ理論の習得は、概論を知ろうとするだけで、手ごたえを感じています。言うまでもなく、その範囲は広く、深い。実技に結びつける場面では、体系的な知識の積み上げに乏しいためもあって、遠回りが永遠に続くのではないかと感じました。
それでも理論的な支えが少しでもあると、ジャズ音楽はさらに楽しい。正直なところ理屈を知らないと何となく落ち着かないのは性格によるものなんでしょう。理屈があまり先行すると、自分で自分の首をしめることになりかねません。
理論的な窮屈さを少しでも解消するには練習を楽しむ以外にありません。たとえばジャズアドリブの重要なポイントの一つに、コード進行に沿ったアドリブを目指すという考え方があります。コードの進行とアドリブのとり方を理詰めで考えると、非常にややこしいことになるし、技術的にも追いつけるものではありません。鬱々とした感じにとらわれ、苦手意識が芽生えるとなかなか厄介ですが、たまたまI’ll Close My Eyesというスタンダードのアドリブを練習している際に、コード進行に沿ったアドリブを2小節と、該当個所のメロディをセットで交互に吹き、響きを確認することを思いつきました。この練習は楽しい。コードトーン(コードを構成する音)のどの音から入ると、うまくサウンドするかなど、何度も繰り返しているうちに気が付くようになります。この種の練習がすぐに身に着くわけではありませんが、今、この現場でいい響きになればそれでよし。まさにジャズそのもの、ではないかと多少図に乗って考えたりします。
こんな練習は分かっている人は誰でも分かっている類のものなのでしょうが、自分の試行錯誤の過程で気づいた事柄は記憶に残りやすい。
*この連載が本になりました!
*TOHOKU360で東北のニュースをフォローしよう
X(twitter)/instagram/facebook