「藤村の文学は名掛丁から始まった」島崎藤村と仙台の不思議な縁を追う

森田義史】仙台駅東口に位置する名掛丁。実は東北学院の教師として赴任した島崎藤村が一年ほど住んでいたということを知っていますか?

身近な人との死別などで傷ついた藤村の心を癒した、仙台の風景とは。そして名掛丁の人々が再開発に直面したときに見つめ直した、藤村との縁とは。それを学ぶ絶好の機会を得ました。

「名掛丁と藤村」の関係、学ぶ機会に

仙台駅東口から東北楽天モバイルパークへ向かうと右手に見える、こちらの建物。この中にある仙台市生涯学習支援センターで、榴ケ岡市民センターが主催する「榴ケ岡寺子屋出前講座 名掛丁と藤村」というエキサイティングな講座が開かれました。地域の歴史を掘り起こし、まちづくりに活かす。これだけ聞くとありきたりですが、ここは一味違いました。

まちづくりは土木事業じゃない。人々の思いが作るんだ

今回の講座は名掛丁という仙台の小さな一地区の歴史に関するテーマだったにもかかわらず、定員50名が集まり、会場は熱気にあふれていました。

講師は名掛丁東名会の役員梅津恵一さん。代々続く酒屋さんの店主で、昭和63年に開始された仙台駅東の区画整理に最後まで向き合ってきた気骨の人です。

当初、仙台市の区画整理についての説明は町内会長だけに伝えられたもので、「個人の財産に大きく関わる問題を、地域の親睦会の代表にだけ話して終わり、でいいのか」と、大きな反発があったといいます。20あった町内会で当初から賛成していたのは名掛丁(東名会)ともう一つの町内会だけだったと梅津さんは話しています。

藤村との縁を、再開発後の名掛丁に遺すために

名掛丁では決められたことに抗うよりも、何を遺すかを話し合ってきたといいます。まず取り組んだのは町内会史の作成。その中で、町内に島崎藤村が下宿していたことを知ります。町内会で20人もの視察団を組み、藤村の出身地、岐阜県中津川市馬籠にある資料館を見学に行きました。

アポなしにもかかわらず、当時の館長が自ら展示の解説を買って出てくれたそう。「藤村の文学は名掛丁から始まった」という館長のことばに勇気づけられ、東名会の島崎藤村顕彰活動は熱を帯びていきます。

島崎藤村の「市井にありて」には

遠く荒浜の方から海の鳴る音がよく聞こえて来ました。『若菜集』にある数々の旅情の詩は、あの海の音を聞きながら書いたものです。

という一文があり、それを検証してみた、という梅津さんの話も面白いものでした。「詩人だから、感覚が常人より研ぎ澄まされていたのだろうか」。文学的誇張表現だろう、と片付けないところがとても好感が持てます。

下宿先の三浦屋があった場所は区画整理後に公園となり、仙台各所にあった藤村の歌碑も、縁があって集められてきました。

公園の地面には藤村の詩集「若菜集」の表紙から蝶のモチーフが描かれ、藤村公園として憩いの場となっています。仙台駅から公園までの街路は代表作「初恋」から名付けられた初恋通り。

高層ビルが立ち並び、風景が一変した町並みには、文豪が心を癒した歴史とともに、歴史的な区画整理に向き合った町内会の人々の思いを感じることができます。

新しい世代の方たちにも語り継いでほしいですね、と記者が話を振ると梅津さんは「あくまでも次の世代の人達が考えること」と語りました。やれることはやり切った、という矜持を感じさせる語り口でした。

市民センターを使い倒せ! 

本事業は榴岡地区エキサイティング事業実行委員会が企画する「榴ケ岡寺子屋」の一環で開催されたもの。この「榴ケ岡寺子屋」は7年ほど前から実施しており、歴史編、防災編、福祉編などテーマを設けて年間4回も講座を行っている活発な団体であることが分かります。

本講座を受講して感じたのは、人のつながり、連携が上手くいっているからこその盛り上がりだということ。同じ建物には仙台市の榴岡図書館もあり、今回の講座に関連する資料を展示してくれていました。

宮城野区中央市民センターや榴ケ岡市民センターの職員と受講者の近さも見てとることができました。梅津さんの講演の中にあった「まちづくりは自分たちでやる」という言葉。市民センターをもっと活用して、自分たちの暮らしを豊かにしていく、そんな未来が見えてくるようです。

この記事は、仙台市の宮城野区中央市民センターとコラボした市民記者養成講座「東北ニューススクールin宮城野」の受講生の制作した記事です。宮城野区を舞台に活動するさまざまな地域密着の市民活動を取材し、発信していきます。他の記事は下記の画像バナーからご覧ください。

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