【寺島英弥(ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授) 】今年の元日、最大震度7の大地震があった石川県の能登半島。被災地となった輪島市の浜の集落を、尚絅学院大学(宮城県名取市)の支援活動に参加して訪ねた。地震の後の9月下旬、さらに未曽有の豪雨水害が半島を襲い、多くの被災地が今なお二重災害の深手に苦しむ。その集落で懸命の復旧活動に取り組むのは、国や県でなく、全国から集う大学生、社会人らのボランティアだ。失意から古里を離れようとした住民の心をも動かし、笑顔の協働と交流、希望が生まれている。今は報道も少ない現地の実情を、東北からの目と耳で報告したい。(写真も筆者)
隆起し干上がった海岸と漁港
能登半島地震の被災地に入ったのは11月3日の朝。前日の激しい雨が上がり、穏やかな日差しが能登の緑豊かな山野に注いだ。正月の地震での損壊跡がおびただしい半島の県道249号をワゴン車で北上し、輪島市西端の日本海に出ると、白い岩の磯が広々と隆起した海岸が目に飛び込んだ。県道沿いの剱地(つるぎじ)、赤神、黒島、鹿磯(かいそ)の各漁港は、岸壁が付け根までむき出しになり、船溜まりの底まで干上がって、緑に草むした港もあった。隆起は最大で4メートルと報じられ、沈下した各漁港をかさ上げ工事で大修復した東日本大震災とは全く異なる、拠点港での水路掘削などが模索されているという。が、大地震から1年近くを過ぎて毎日、復旧の目途も立たぬ風景を目にせざるを得ない住民の思いはどうなのか。
「『鳴き砂』が知られた琴ケ浜も、川の流れや砂の供給など環境が変わり、もう鳴らなくなりました」。この支援活動のホストになった北陸学院大学(金沢市)の富岡和久教授が、ワゴン車のハンドルを握りながら残念そうに語った。海岸沿いの道路に迫る山のあちこちでがけ崩れがあり、大雨のたびに通行止めになるという。宿舎(羽咋市の教会伝道所)を朝8時に出て約1時間半で着いたのは、輪島市門前町深見の集落。入り江の漁港はやはり隆起で陸地になり、小さな漁船群は出番を失い船小屋で眠っている。そんな被災地の集落を、9月21~22日にかけて豪雨が襲った。輪島市での24時間の降水量が412ミリという記録的な大雨で、半島部の小河川は至る所で氾濫し、大地震の痛手と亀裂を抱えた多くの被災地が水害にのまれた。
大地震から9カ月後に豪雨水害
深見地区は、元日の地震が起きるまで27世帯、53人の住民が暮らしてきた。漁港に接した集落に入ると、真ん中を流れる幅十数メートルの深見川のコンクリート護岸が水害で崩壊し、両岸のアスファルト道路も深々とえぐれて、地中に埋まっていたマンホール土管が何本もむき出しに立っている。川の両岸では、艶々と黒光りする能登瓦を載せた家々が潰れ、大地震の被害の酷さを見せつける一方、軒先まで地面を削られ1階部分をほぼ空洞にされた家もある。すさまじい豪雨水害に追い討ちを掛けられた経緯が目にも明らかだ。東日本大震災の津波の記憶と嫌でも重なるような、ばらばらになった木造家屋の部材の山々も。どの現場も乾いた泥の色に染まり、能登半島地震から10カ月を過ぎた今も生々しい二重被災の事実が胸に刺さる。
川下に近い一軒の家に、うずたかい木っ端の前で作業をする男性がいた。「納屋が全壊して、前の車庫もめちゃめちゃに崩れた」と長靴、作業着姿で語ったのは、行政区長の角海(かどうみ)義憲さん(72)。元日午後4時10分に起きた地震の際は、99歳になる父親が母屋の居間でこたつに入り、テレビを見ていた。たんす類が倒れ、出入り口の一つもつぶれて開けられず、悪戦苦闘し救い出したという。
畳の泥が乾いた母屋に土足で招き入れると、「見てください、こんなに曲がっとるでしょう」と古びて艶の濃い柱をなでた。「明治に建った家です、昭和50年代に増築しましたが。天井の太い梁は珍しいケヤキの一枚板で、父の自慢でね。前の地震(2007年の能登半島地震、地元で震度6.4)の時も全壊と言われたが、大事に修理して、漆塗り職人に塗り直してもらったんです」と、いとおしそうに角海さん。
「今年正月の地震でも全壊の判定を受け、『リフォームか建て替えか』と思案し、それから『公費解体もやむなし』という話になり、明治の年代の部分だけを壊そうという申請も受理されて、仮設住宅から清掃に通っていたところだったが」 。9月21、22日の予期せぬ豪雨水害が集落を襲ったのだ。地震で深見川の護岸にも亀裂が入り、区長の角海さんが中心になり補修の話を進めていた矢先だった。
集落から近い道下(どうけ)第一仮設住宅でほぼ全戸の住民が避難生活を共にし、当時は被災を誰も知らなかった。一人だけ集落にいた人が帰るに帰れず、3日後に仮設住宅にたどり着き、初めて状況が分かったという。山から押し流された土石流のかさは人の背丈ほどにもなり、「上流にあった畑地全体を川に変え、橋を落とし、川床を土砂で埋めて好き放題にあふれて、集落の家並に流れ込んだ」。
全国のボランティアが住民と協働
深見地区では、大勢のボランティアが活動している。<個人のボランティアは募集していません。お気持ちは大変ありがたいのですが、能登へ向かう道路が渋滞し(中略)大変困っています>―1月の能登半島地震の発生後すぐSNS「X」でこう発信した馳浩石川県知事の意向にも構わず、被災者本位の救援を当初から続ける沖縄の災害NGO「結」など社会人のチーム、土木作業に専門職の力を発揮している重機ボランティアの人々や、北陸学院大が中心になった呼び掛けで全国から集った大学生と教員ら、多彩なヘルメット、ビブスを身に付けたグループがここで協働していた。
尚絅学院大の教員と学生8人の支援チーム(代表・ユウジンボク准教授)は11月2-4日に、この作業に加わった。これまでに川沿いの道路や家々の中に積もった泥の除去は進んでおり、学生らは集落の外れ、川の上手にある墓地の泥出しを担当することになった。この先には、迫る山の峡(かい)まで各戸の野菜の畑が連なっていたが、それも厚い土砂の下にある。浄土真宗の土地で「墓地は住民たちの大切な場所。水害の後、皆さんから真っ先に『仏壇を何とか救い出して』と言われたくらい、代々先祖供養の心篤い土地だから」と、ボランティアたちの復旧作業の指揮を担っている北陸学院大の田中純一教授(58)=災害社会学=は語った。家々の作業が急がれる間、土砂に埋まったまま残された墓地の姿にも住民は心を痛めていた。
「南無妙法蓮華経」と刻まれた竿(さお)石を表に残し土砂に埋まった墓地で、作業は大小の軽量スコップ、「ジョレン」(くわ状の道具)を使って、20~30センチの厚さに積もった土砂を少しずつ削ってゆく。それを手押し一輪車にためて、川の土砂捨て場まで運ぶ、その延々たる繰り返しだった。流された山の木々も墓地にのしかかり、社会人のボランティアや住民も一緒になって電動、手動のノコギリで切って取り除きながら墓を掘り出す難作業。墓の花立や香呂、玉垣(外柵)が現れると、2日目には大小のブラシと川の水で土を洗い流し、水害前の姿をよみがえらせた。年配の女性らが作業を見守り、きれいになった墓に早速、ピンクの花を供えた。「よかった、待っていたんだよ、ありがとう」と心こもる言葉を学生らに贈った。 (後編に続く)
*TOHOKU360で東北のニュースをフォローしよう
X(twitter)/instagram/facebook