福島県沖地震「最大震度」を観測した郷里・相馬の街は

 【寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】2021年2月13日午後11時7分ごろ。筆者は名取市内の自宅で机に向かっていた。最初は小さな揺れだと思った。2011年3月11日の東日本大震災。すべてを破壊するかのようだった激震を、当時いた仙台市中心部の河北新報のビルで体験し、以後、大抵の地震に驚かなくなっていた。しかし、この深夜の地震は気味の悪い横揺れを増幅させ、「おい、やめてくれ」と叫ぶまでに長く続いた。頭をよぎったのが10年前の被災地の光景であったのは言うまでもない。 

点けたテレビの臨時ニュースは早々と津波の危惧を打ち消したものの、安堵の間もなく、最大震度の「6強」を記録した地点の一つが、筆者の郷里・福島県相馬市と伝えた。実家の親と電話がつながり、無事に安堵したが、翌14日、車を相馬に向けた。状況を一目確かめたかった。 

倒壊がなかった商店街 

地震の発生後、相馬市につながる常磐道は通行止めになり、市内で起きた大規模な土砂崩れが上下線を塞いでいる光景が14日朝のニュースで流れた。このため代替えルートとして国道6号を南下する車が多く、いつも1時間で着く距離に30分余計に要した。6号沿いは、宮城県山元町でのり面の応急復旧工事を見たほかは、地震の被害と思われる個所は見かけなかった。 

相馬に着いて、まず駅前から商店街の一角を通ったが、建物の倒壊など激しい被災は外側から見られず、ただ外壁のモルタルがかなりの部分、はがれ落ちた飲食店の一軒が目に入った。何人かで中から物を運び出していた店もいくつかあり、食器類などがおびただしく壊れたようだった。少なくとも、町中で古い家屋や商店が道路に前のめりに崩れた姿のような、筆者が最も危惧した状況は見られなかった。 

外壁の崩れた相馬市内の店=2月14日(筆者撮影)
倒れたブロック塀=2月14日、相馬市内(筆者撮影)

ついに力尽きた家 

一軒の古い家で車を止めた。同級生の自宅で、かつては武家の家敷だったのか、築100年になると聞いた。10年前の大震災に耐えたが、大きな痛手を受け、筆者も片付けの手伝いをした。その後も大切に住み続けていたが、今回の地震の後、安否を尋ねたメールに「うちはダメ」と返信があり、最も気がかりだった。 

割れたガラス戸が庭に運び出され、家は一見してゆがみ、玄関も開け閉めできなくなっている。中では家具や棚が倒れ、食器が散乱した台所などで片付けをする人たちがいた。倒れて廊下を塞いだ古い本棚の整理を手伝ったが、運び出したのが、亡くなった父親の蔵書類。収集された分厚い陶芸の書籍や、戦後の歩みを記す古い雑誌が山のように積み上がっていく。遺品の本やレコードなど、故人しか価値が分からず、処分されてしまう例をこれまで見聞きしてきたが、震災との闘いについに力尽きた、ある家の歴史の終わりに立ち会うような悲しさがこみ上げた。 

家の歴史を刻んだ本たち=2月14日(筆者撮影)

耐震工事の結果 

1964年の東京オリンピックと同じ年に建ち、何度かの改築をした筆者の実家は無事だった。やはり10年前の大震災の揺れで、老親の寝室のサッシ戸がうまく閉まらなくなり、だましだまし使っていたのだが、地元の建築士の同級生に昨年見てもらい、「部屋の構造そのものがひどくゆがみ、次に大きな地震が来れば、真上に載った2階ごと倒壊する危険がある」と診断された。 

早朝の大地震で多くの家が潰れた25年前の神戸の出来事を思い、親を説いて耐震工事をしてもらった。かつては水田だった地盤を補強するため、部屋の土台を一から打ち直し、部屋の中に部屋を造るように新しい柱や筋交いを入れ、ゆがみを解消し、ガラス戸も4枚から2枚にし、どんな地震が来ても籠っていれば安全―というシェルターのような空間に生まれ変わった。 

今回の地震の折、就寝したばかりだったという親は「部屋に守ってもらった。安心していた」と語った。弟がいる2階の本棚や、茶の間の整理棚は倒れたが、家そのものは無事だった。 

建築士・桜井さんが提案した耐震工事=2020年5月、相馬市の筆者の実家

2年前にも豪雨水害 

建設会社を営むその友人、桜井茂樹さん(64)は、13日深夜の地震が収まってすぐ、実家をはじめ、自ら手掛けた家々や店舗を急いで見て回り、無事を確認したという。大規模な家屋倒壊が起きなかったのはなぜか。町を見続けてきた桜井さんはこう話す。 

「むしろ2年前の10月、相馬の商店街など中心部は二度の豪雨水害に襲われたことが大きい。震災の後、人も家も何とか頑張ってきたのだが、水害の追い討ちに耐えきれず、約160軒が行政の無償解体に応じた。いまも街は再建、復興の途上にあるが、危険な状態だった家屋はほぼなくなり、耐震工事をした家も多い。地盤や揺れの性質の違いもあるが、大震災での小高、浪江のような状況にならなかった理由の一つなのではないか」 

だが、それが不幸中の幸いなどとみるのは間違い。10年後の追い討ちを掛けた今回の地震でも、郷里の街の誰もが大小の被災をし、不安の夜を過ごした。またしても屋根瓦にシートを掛け、壊れた家財を片付けることに新たな失意を重ねた。そこにひどい雨が降り注ぎ、また2月の寒さが戻ってきた。桜井さんもまた2年前の豪雨被害に遭った自宅を後回しにし、ようやく始まった家屋再建の支援をしている。 

台風19号上陸から一週間、福島県相馬市で続く泥との苦闘|TOHOKU360
台風19号からわずか2週間後の「二重被災」に悲鳴 福島県相馬市|TOHOKU360

震災は忘れさせない 

相馬の街は10年前、全半壊や屋根瓦崩落などがおびただしく生じた。海辺は無論、津波で被災し、原釜、尾浜、磯部などの集落が失われ、500人近くの命が奪われた。さらに、30キロ南で起きた東京電力福島第一原発事故が市民を不安に陥れ、自主避難や家族の分断を生み、汚染水問題や風評が漁業、農業、観光に携わる人々に二重の苦難をもたらした。 

2012年4月30日、南相馬市小高(筆者撮影)

2021年2月13日の大地震は、あの3・11の大震災の「余震」であったという。震災の風化が危惧され、東北の被災地は伝承と防災の努力を続けているが、震災は、何年が過ぎようとも恐怖をよみがえらせ、決して「忘れさせない」。それが恐ろしいと思った。「10年前を思い出した」と語る人の多さが、そのことを物語る。そして、遠い復興へのさらなる負担を課した。 

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