【大学生が記録する3.11】東日本大震災は、11日で発生から13年を迎えます。「風化」や伝承の危機が議論される中、尚絅学院大学(宮城県名取市)では、当時幼稚園、小学校にいた大学生たちが、ローカルジャーナリストの実践を学ぶ二つの授業で震災を見つめました。自らの記憶を掘り起こし、また被災地の当事者の今を取材し、力のこもる記事を書きました。そして、若者たちは震災を終わらせません。それぞれの言葉で何を伝えようとするのか、シリーズでお読みください。(尚絅学院大学客員教授、ローカルジャーナリスト 寺島英弥)
※この記事の途中には津波直後の相馬市沿岸部の写真があります。
あと1分、30秒遅かったら…
【今野未空(尚絅学院大学健康栄養学類1年)】あれから13年が経とうとしている。私は福島県相馬市に住んでいた(現在は進学した大学の近くに住む)。何が変わったのか。ふと海をきれいだと思っても、急にあの日の光景が浮かんでしまう。黒い壁が何もかものみこみ、跡形もなくなった目の前の光景。素直に海がきれいだと思うことができなくなってしまった。
2011年3月11日のあの時、私は幼稚園から帰ってきて、こたつに入っていた。両親は自宅の店でお客さんの自転車の修理をしていた。すると不意に、今までに感じたことのない恐怖を感じた。まだ地震は来ていなかったのに、何か得体のしれない恐怖を感じたのを覚えている。次の瞬間、大きな地震が来た。とっさにこたつの中に隠れ、大泣きしていた。両親は自転車を支えながら私の名前を呼び、「大丈夫、大丈夫だから。」と叫んだ。
地震が収まると、小学校にいた私の姉を、私と母が車で迎えに行くことになった。しかし、津波が発生していたのを知らず、津波に向かっていくように小学校に向かっていたのだ。あと1分、いや30秒、着くのが遅かったら、今、ここに私は存在していなかっただろう。
福島第一原発でも爆発、秋田へ避難
小学校に着いて姉と再会し、ぱっと外を見ると、大きな壁が迫ってきていた。幼いながら、この光景が普通のものでないことが理解できていた。津波が1度引いた後、父が小学校まで走って迎えにきて、家族全員が再会できた。そして、「家に一度帰ろう」ということになり、「車だと、道が渋滞してしまったら危ないから」と、みんなで走って帰ることになった。田んぼの脇を走っていると、本来なら海辺にあるべきものが無数に流され転がってた。「横を見たらだめだ」と思い、必死に走り、家に帰った。
それから1日が経った後のことだったと記憶している。福島第一原子力発電所(注・相馬市から35㌔南にある)で大きな爆発事故が起こり、周辺の町々に避難警報が出た。原発から離れた故郷は一応大丈夫ではあったが、私は幼かったため、母の実家がある秋田に避難した。それから後も、ここには書き尽くすことができないほど、頭がパンクしてしまいそうなほどの、たくさんの出来事が起きた。
あれからもう13年が経とうとしている。今、私は大学1年生だ。身体も心も何もかも成長した。小学生、中学生の頃のちょっとした記憶が残っていなくても、東日本大震災だけは決して忘れることはない。それだけ衝撃が強すぎた。たった2日、3日で生活が一変してしまったのだから、当たり前かもしれない。
たくさんのつらい「事実」受け入れ
これから何年、何十年経とうと、あの出来事を忘れられないだろう。いや、忘れてはいけない。
あと30秒遅かったら、私と母はこの世にいなかったかもしれないという事実。津波が、今までその場にあったものをすべてのみ込んでいく残酷な光景を目の前で見た事実。私の知人で、家族が帰らぬ人となってしまった方がいるという事実。
そして、原発事故の後、それまでしたことのないマスクを着けざるを得ない状況になったという事実。家で育てていた野菜類が放射性物質の影響で食べることができなくなったという事実。故郷の相馬を一時的に離れることになってしまったという事実。
たくさんのことがありすぎた。人間は自然に勝つことはできない。だからこそ、忘れたいくらいつらい出来事も受け入れなくてはならず、同じようなつらい経験をする人を少しでもなくしたい。そう思うから、私の19年というまだまだ短い人生ではあるけれど、あの一番衝撃的でつらい出来事だった東日本大震災を忘れてはいけない、忘れたくない。私はこれからも、きっと海を見るたびに13年前の悲しい日々を思い出し、今を生きていることに感謝するだろう。
文:今野未空(尚絅学院大学健康栄養学類1年)
編集:寺島英弥(尚絅学院大学客員教授、ローカルジャーナリスト)
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