【大学生が記録する3.11】東日本大震災は、11日で発生から13年を迎えます。「風化」や伝承の危機が議論される中、尚絅学院大学(宮城県名取市)では、当時幼稚園、小学校にいた大学生たちが、ローカルジャーナリストの実践を学ぶ二つの授業で震災を見つめました。自らの記憶を掘り起こし、また被災地の当事者の今を取材し、力のこもる記事を書きました。そして、若者たちは震災を終わらせません。それぞれの言葉で何を伝えようとするのか、シリーズでお読みください。(尚絅学院大学客員教授、ローカルジャーナリスト 寺島英弥)
【伊東彩花(尚絅学院大学人文社会学類3年)】2011年3月11日に発生した東日本大震災から、13年になる。当時は小学生であった私も、今は大学生活が残すところ、あと1年となった。長いようで一瞬で過ぎたような歳月に、「復興」という言葉を新聞やニュースで何度見聞きしてきたことだろう。
「復興」とは、いったいどのようなものか。何をもって「復興」と認められるのだろうか。そんな“答えのない”問いを考え続ける、宮城県名取市閖上の長沼俊幸さん(61)を取材できた。津波で被災した後、避難所と仮設住宅で6年の生活を経て、市によって現地再建された閖上に戻った。閖上中央町内会長を務める。語ってくれたのは、災害公営住宅が並ぶ新しい街でのコミュニティ再生の難しさ。被災地が今も抱える問題や、町内会の現状にも触れながら、「復興」という言葉の意味を我が事として問いただしたい。
「復興」って、いったい何だろう?
「復興」:衰えた物事が再び盛んになること。また、再び盛んにすること。再興-。国語辞書を引くと、おおよそこのような文言が綴られている。
あなたは「復興」という言葉を聞いて、具体的にどのようなことを想像するだろうか。景観や立地を修復することをいうのか? その地において失われた活気を取り戻す行為を指すのか? でも、たとえ施設や景観がきれいに復旧されたとして、その地に戻った人々の暮らしも、気持ちも、つながりも、元通りに修復されると言えるのだろうか?
震災前の「うざい町」は津波に消え
名取市閖上。400年来の歴史の漁港があり、地元の海で捕れる豊富な魚介が有名である。この地で生まれ育った長沼さんによれば、「良いことも悪いこともすぐ伝わってしまうような、住民同士の距離の近さが持ち味の街だった」。
初めて聴いて驚いたのだが、「自宅に鍵をかけずに外出する習慣があり、ご近所さんに留守中の冷蔵庫にでも『おまかね』(おすそ分け)をよくしていた」と、昔ながらのつながり、互いの信頼も厚かった故に安心して暮らせる場所。しかし、誰かの世間話がすぐに広まるところもあり、震災前は「うざい町だった」と、長沼さんの口から愛着を込めて表現された。
のどかな古い街の住民たちには、閖上に津波は来ない」という観念も根付いていたという。あの日に被災した長沼さんも、自宅への津波到達寸前に「逃げろ!」と促されても、「そもそも津波って何なんだ?と、ピンと来なかった」と語った。それも無理はない。長沼さん自身も「閖上に津波は来ない」と祖父から聞いていたからだ。
『地震が来たら、津波に用心』。閖上のシンボルで震災前から唯一残る日和山(海抜6.3㍍)の下に、こんな石碑が立つ。1933(昭和8)年3月3日の昭和三陸大津波の後、その教訓を地元の先人が刻んで建立した。が、時が経つにつれて碑も教訓も忘れられ、正反対の誤った話が伝承されてしまったのだ。
長沼さんは、13年前の3月11日を回想した。自宅の外の道路が黒い水で濡れて、それがなぜか分からず、近隣は住民の避難を誘導する大声で騒がしかった。津波がばりばりと家々を倒して押し寄せるのが見え、奥さんと家の屋根の上に登り、津波に家ごと3㌔も流された。厳しい寒さが肌を刺す中、救出まで25時間も耐え続けたという。「家の外がすべて海!」という生まれて初めての驚愕をした。家も船も人も、何もかもが津波にのまれる光景を目にした閖上の方々の気持ちは到底計り知れない。
長沼さんにとって昔ながらのふるさとは跡形なく失われた。避難所や仮設住宅での生活を経て17年、現地に再建された閖上に戻った時、待っていたのは6階建ての新しいアパートが立ち並ぶ、見たことのない街だった。
行政と住民の価値観の不一致、町内会長の思い
閖上の災害公営住宅は、名取市が発注者になり、事業委託された民間の建設コンサルタント企業を介して6棟(計180戸)が建設された。掲げられたのは「安全で安心して快適に暮らすことができる」、「多様な世代がつながり、絆を感じる」、また「地域社会と連携した、地域が継続的に成長する『すまいとまち』」というコンセプト(株式会社URリンケージ 名取市閖上地区集合災害公営住宅整備事業紹介ページより)だった。
「『閖上らしさ』を感じられる街並み空間の形成」を謳ったが、町内会長になった長沼さんの目には、「行政は地域住民の『気持ち』に寄り添えていない」と映った。「行政の人たちは『これは便利だよ』って言うけどね、やったことない、経験したことないものは当事者にとっては苦痛なんですよ。そこを、使う人たちの思いにもっと寄り添えていたらなぁ」
例えば、災害公営住宅の内部で移動手段として設置されたエレベーター。誰もが使用しやすくという目的上、居室が並ぶ各階の真ん中の位置にある。一見、高齢者が多い住民に配慮した造りと思われるが、長沼さん曰く、「長年平屋暮らしの高齢者は、エレベーターを使って移動する生活に不慣れ。外へ出るのも億劫になり、引きこもりがちな生活になってしまう」。
災害公営住宅には震災後、同じ仮設住宅の仲間だった住民もいる。が、入居者は、「機会の公平性」を優先した市が出身地域に関係なく「くじ引き」で決め、大半が見ず知らずの隣人同士になった。新たな交流を広げることができれば、地域コミュニティづくりも見込めただろう。が、住まう人が皆、社交的ではないだろうし、帰る家をなくした高齢の独居者が多い。そうした事情の理解、引きこもりを防ぐ配慮は、長沼さんら自治会の大事な役目になった。
実際に同じ問題について考える他大学の学生からも、「仮設でつながった人が定期的に交流できる機会が必要だ」、「入居者同士の顔の見えるコミュニティを今後も末永く継続させるには、若い世代の関わりが重要だと感じる」などの声が上がった(2018年1月20日の河北新報ONLINE<311次世代塾>『生活再建の支援薄く/第1期第12回詳報』より)。
効率第一の行政、安らぎ求めた住民との「壁」
このように新しい閖上の整備は、現実には、災害公営住宅で暮らす住民同士のコミュニケーションに壁をつくる結果となった面はないだろうか。「利便」「効率」「時間」を優先した行政と、「安らぎの場」を求めた住民、双方の「復興」に対する価値観の不一致。それが生んだ環境は、当事者の声を生かして改善されていくべきではないのか。取材からそう感じた。
市は、閖上の被災者が仮設住宅などで暮らした時期、「現地再建」の方針を掲げ、「閖上への帰還」を問う意向調査を行った。その結果、「津波を経験したこともあり、怖くて戻りたくない。別な移転地を」と多くの人が回答し、帰還したのは旧住民の3分の1だけだった。だが、昔馴染みの仲間と再び暮らしたいと願う人は、今もたくさんいるはずだ。
「私は、閖上の仲間たちとまた一緒に暮らせるなら、場所はどこでもよかった。それが『復興』だと思っていた。だが、住民はばらばらになり、私の『復興』は消えてしまった」、「行政はね、周りから良く見られることばかり考えているんだ。こうやっとけば周りから文句つけられないだろうって」。そのように語る長沼さんの表情には失望感が浮かんでいた。
「誰にとっても公平、平等であること」を重視した市の方針は、本当に閖上の住民の幸せにつながったのだろうか?
被災に「ギャップがある」という重い言葉
「『復興』って何か?と誰に質問しても、今まで納得いく答えをしてくれた人はいない。それぐらい、一筋縄では答えを出せない、難しい問題なんだ」
新しい閖上のコミュニティづくりを模索してきた長沼さんの本心だ。仮設住宅から移った当初、町内会に携わる気はなかったという。けれど、周りから推されたことで引き受ける決心をし、19年3月、初代の閖上中央町内会長になった。
以来、「皆で顔を合わせ、おしゃべりをする」機会をいつも大切にしてきた。たとえ、ドアの外から声を掛けても出てこない人だったとしても、決してそのままにせず、返事があるまで声を掛け続けるという。住民を誰一人、取り残したくないという思いがその言葉にある。
長沼さんにインタビューを行う以前は、私も「復興」という言葉の意味を、震災により生じた被害を「修復すること」と捉えていた。加えて、私は津波で甚大な被害を受けた当事者のお話を聴くのは初めての経験だった。それを通して、私は自分の「復興」観が180度変わったと実感している。
何度か取材をする中で、長沼さんが繰り返し語った印象深い言葉がある。それは、震災には大なり小なり「ギャップ」がつきまとうということ。「被害に遭い、実際に家を流されてしまった人たちと、家の片付け程度で済んだ人たち。遺族になった人と、私のように、ならなかった人。あるいは、経済的に余裕があり家を再建できた人と、そうではない人。『簡単にできるだろう』と思っていたことと、待っていた厳しい現実」。語られた「ギャップ」という言葉の意味は深く、重い。
閖上から問われた「復興」の意味、考えてほしい
私は自身もこの「ギャップ」に当てはまる人間だと考えている。私も被災地となった街の出身で、一人の被災者ではあるが、メディアの報道を通してしか津波の姿を知らないし、自宅の地震被害も大きくはなかった。長沼さんらは、津波で自宅を失い、避難所生活を経験し、苦難の歳月を生きてきた人々。この先、互いの溝が1ミリの隙間もなく埋まることはおそらくない。それに、これまで挙げてきた難しい問題に対し、明確な答えというものは出せないと私は思っている。けれど、被災者の心情に耳を傾け、理解することはできる。
私も、被災体験をじかに語ってもらうまで、知らなかったことは数えきれない。だからこそ、自分の知らない場所で苦しい生活を強いられてきた人、現在もやるせない思いを抱えながら暮らしている人がいるという事実を、自分の記憶に留めておくだけでなく、外につなぎ、伝承していくべきだと強く思った。
最後に私なりの答えをまとめるとすれば、「復興」とは、被害を受けた当事者の方々の心や感情など、「形のないものが満たされる」ことだと考えた。読者の皆さんも、震災後13年にしていまだ答えの出ない「復興」という言葉の本当の意味を、どうか一度考えてみてほしい。時をさかのぼって当事者となることは叶わなくとも、事実を共有し合うことで、あなたも、いつだって被災者の心に寄り添う理解者になることはできるのだから。
文:伊東彩花(尚絅学院大学人文社会学類3年)
編集:寺島英弥(尚絅学院大学客員教授、ローカルジャーナリスト)
*TOHOKU360で東北のニュースをフォローしよう
X(twitter)/instagram/facebook