解体進む城下町の文化、未来に残すには?「そうま資料ネット」活動1年のシンポジウムから 

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】東日本大震災とその後の水害、相次ぐ地震で被災した市街の家屋解体が進む相馬市で、市民有志らが「そうま歴史資料保存ネットワーク」(そうま資料ネット。代表・鈴木龍郎さん、日本画家)を結成して1年余り。「市民主体の活動は全国唯一」という。解体前の蔵などから古い資料や文化財を救出する活動を広く発信するシンポジウムが先月、拠点を置く相馬高校であった。貴重な発掘資料の展示や、「そうまの歴史を守る・伝える」と題する現場報告の集いに、市民や研究者ら100人近くが参加。貴重な成果の披露、地元行政の支援がない現状、全国の活動との連携など、成果と課題、これからへの希望が語られた。 

古いものを壊すだけでは何もない街に 

シンポジウムで鈴木代表は、そうま資料ネット結成から現在の心情を語り、訴えた。 

「(私は東京在住だが)自分の家が、実家がつぶれるという現実。相馬の同級生ら友人らは、2度目の大地震の時は『心が折れた』じゃない、『心がもうとっくに折れている、もう何をやる気もない』状態だった。また次の地震も、被害もあるかもしれないから、『もう家は建てない、アパートに入ればいい』という。現在、相馬の街は空き地ばっかりなんです。家を、新しい家を建てるという動きがないそうです。古い家々は保存も叶わず、解体するしかない現実。残っている古いものを壊すだけでは、何もない街になってしまう」 

「相馬には野馬追がありますね。じゃあ、騎馬武者の旗指物の染色は誰がやったか、それは染物屋です。家紋は紋屋さんです。昔は何軒もあった。鎧(よろい)屋さんだってうちの隣の隣にある。いろんな家にまだ少しずつ残っているものを壊していく。それで相馬は歴史のある街だと言えますか?私たちの根っこはどこに残るのか? それが自分の街だと言えるのか?だから今、家に残されたもの、身の回りに残る古い何かを探してほしい。応援する私たち市民有志も専門家もおり、態勢を充実させようとしています。古いものが永遠に失われぬように救出、保存したい。『私はこういう古里で育ったんだ』『相馬の血が流れているんだ』と、これからも子や孫に言えるような街を、皆で考えてほしい」 

「そうま資料ネット」結成から1年の活動を発信したシンポジウム=2023年9月3日、相馬市の相馬高校 

2011年の東日本大震災、東京電力福島第一原発事故の被災地となった相馬市は、その後も、立て続けに大災害に見舞われた。19年10月の豪雨水害、21年2月13日と翌22年3月16日の福島県沖地震(いずれも震度6強)。津波から復旧途上の松川浦など浜の地域はもとより、内陸にある旧城下町の中心街も、震災と併せ、度重なった災害の打撃に耐えきれず、22年の大地震の後、市役所に寄せられた家屋の解体申請は全体で計1100件を超えた。 

全壊した鈴木さん宅を筆者が訪ねたのは同年4月上旬だった(TOHOKU360記事参照『福島県沖地震 相馬で文化財級の民家が全壊「貴重な遺産、生かしたい」』 ) 。旧相馬中村藩城下の武家屋敷だった自宅は、昭和初めのモダンな数寄屋造りで、旧当主の来訪を迎えた大玄関のある文化財級の家屋。銀屋根の大玄関は地震で前のめりに倒壊し、座敷の四方柾の柱は傾き、障子戸はねじれて折れ、古いガラス戸は外に飛んでいた。前年の地震でも被災し、「末永い保存と耐震工事のための文化財登録援を、市や芸術関係の仲間、母校の相馬高OBらに働きかけていた」さなかだった。深く心折れながら、鈴木さんは「私と古里を結び直してくれた契機が大震災。生家の新たな被災を、地元の文化を考える人が集い、輪が広がるきっかけにしたい」と前を向いていた。その姿、言葉に筆者は衝撃を受けた。 

救出した成果も、保管場所に苦心 

鈴木さんの模索と呼び掛けに、地元の相馬高OBの仲間たち、郷土史研究に携わる人々、大震災と原発事故の被災地で古民家などの資料救出活動をしてきた福島、宮城の大学の研究者らが集い、昨年9月に発足したのが「そうま歴史資料保存ネットワーク」である。 

『そうまの歴史を守る・伝える』と題されたシンポジウムは、そうま資料ネットの結成1年の節目で、活動とその成果を広く市民らに知らせ、共感と参加を広げ、課題の解決へ他地域との連携も呼び掛けようーと催された。事前の企画が、遠来の参加者に相馬を知ってもらう街歩き。会場の相馬高校から、毎夏の相馬野馬追で総大将出陣の場所である中村神社(国指定重要文化財)から、中村城址を経て旧城下町の商店街を歩いてもらった。 

メンバーで相馬高校講師の武内義明さん(65)はシンポジウム冒頭、「相馬地方は『相馬六万石』の伝統と歴史のある町だが、歩いてみると今は『どこにどういうものがあるの?』と戸惑うぐらいに更地だらけ。家々が取り壊された跡があちこちに増えています。これまで4軒、解体前の民家から資料救出を行ったけれど、(任意団体の限界で)保管場所にも困り、現在は高校のプレハブ小屋を借りてる。このままどこまでどうしていいか、悩みながらの1年間だった。それを報告し、市民に知ってもらいたい」と課題を提起した。 

相馬高校の若駒会館では、これまでの資料救出の活動で商家の蔵などから「発掘」されて廃棄、散逸の運命から守られ、初めて日の目を見た「城下町の遺産」が披露された。解体前に調査と救出がされた丁子屋書店(同市大町)の古い蔵の収蔵品。藩制時代から薬、秤(あかり)を売った歴史ある商家で、天秤や升(ます)、明治以後に文具も商ってからの帳簿の版木、初公開である「文政12年」の大きく克明な城下地図が目を引いた。 

丁子屋書店(写真・解体)の先祖が代々商った秤=2023年9月3日、相馬市の相馬高校

今はない木造三階楼の老舗料理店、「まる久」(TOHOKU360記事参照『震災後の家屋解体相次ぐ相馬。古里を愛し描いた老舗料理店主の遺作と思い、どう残せるか』) の戦前の写真もあった。相馬野馬追の行列が店の前を通る貴重な一枚。当時の金文字の木製看板、値段俵、引き札(絵入りチラシ)、引き出物の菓子の木型など、よく保存された品々も展示された。また、そうま資料ネットが地震被害の支援活動を行い、15代目窯主の死去から休業となった名窯「相馬駒焼」の逸品の数々も(TOHOKU360記事参照『東日本大震災で被災の「相馬駒焼」十三回忌迎える15代目の思いを未来に残したい 』) 。救出資料の中で芸術的価値の高い、江戸初期の狩野安信筆と思われる格調高い屏風絵も注目を集めた。 

江戸初期の狩野安信筆と思われる屏風絵。救出資料から見つかった=2023年9月3日 シンポジウム会場 

改修は自費だが解体なら公費 

資料救出の当事者としてシンポジウムに登壇したのが丁子屋の店主、佐藤重義さん(69)。「土蔵の中にあったものが150年、200年経って貴重な時間の『糧』になった。投げ捨ててしまえばゼロなんだと分かった」と語った(TOHOKU360記事参照『相次ぐ地震、失われる城下町の文化財を救え 「そうま歴史資料保存ネットワーク」の活動始まる 』)。 

「小さい頃から遊んだ、わが家の蔵はあって当たり前だと思っていた。だが、(そうま資料ネットの調査で)梁とか棟木にすごい材料を使った貴重な建物と知った。文政12年の地図にも『丁子屋輿八』という先祖の屋号があるのを見て、『壊したら城下町の遺産がなくなるな、何とか残せないか』と、そうま資料ネットとの交流から考えを新たにした。 

北、中、南の三つの土蔵が連なる希少な造りで、通りに面した店舗のある蔵の2階に太く長く美しい曲線を描く豪壮な梁がある。「解体後の新しい土台に、蔵の2階部分を載せられないか」といった方法を思案したが、「知識とお金と時間がなかった」と佐藤さん。 

「土壁は地震で落ち、柱も曲がり、残しても地獄。なんでこんなの残したのって子孫から怒られそうで、心を無にして解体の日を迎えた。改修は自費だが、解体なら公費。決める時間にも制約があり、家の中の物を空にしなきゃダメ。だから、解体するまでは『これは取っておく、いや、捨てて』と毎日、女房とケンカでした。今は更地になり、平穏な日々だけど、水戸黄門が印籠をどこかになくしちゃったような気持ちで、ちょっと寂しい限り。できれば残したかった、何とか残したかったというのが私の心情、本音です」 

メンバーで相馬商工会議所会頭の草野清貴さん(77)も、「ここ5年の間の水害、震災で廃業した会員がいっぱいいる。街の2軒の豆腐屋さんもやめた。皆で立ち上がりたいが、後継者不在の事情もある。古い家屋を守る支援を会議所にできない現状で、せめて会員たちの大事なものを保存し、残していく手助けは何とかしたい」と話し、慶応元(1865)年当時の中村城下の屋敷割略図(地図)を標示板にし商店街に設置した活動を紹介した。 

丁子屋書店の蔵から見つかった文政12年の中村城下の絵図=2023年9月3日、シンポジウム会場

重な発見も、失われたものも 

シンポジウムで、そうま資料ネットの大きな成果と紹介されたのが、丁子屋書店の近隣に並ぶ野崎家という古い商家からの救出資料だ。震災後の13年に店や母屋は解体され、残った蔵から今年3月、地元メンバーや、専門家として参加する阿部浩一福島大教授=ふくしま歴史資料保存ネットワーク代表=と学生たちが古い帳簿や手紙類、家具や陶磁器、家具などを2日掛かりで運び出し、保管した(TOHOKU360の記事参照『解体前の商家の蔵から文化財を救出。福島県相馬市で「そうま歴史資料保存ネットワーク」が本格始動 』)。 

当主は地元の銀行家、地主、県会議員だった野崎亀喜=1923(大正12)年、59歳で死去=で、築地塀と重厚な門、町家づくりの店と広い屋敷を連ねていた。戦後、一家は東京に移り、長年空き家の状態だった。メンバーで福島県民俗学会長の岩崎真幸さん(71)が10年に調査し、「城下町の歴史景観を残す貴重な文化財」と利活用を市に提言したが、実現せぬまま東日本大震災で被災し姿を消し、残った蔵も資料救出後の8月に解体された。 

野崎家の蔵から救出された古文書などの資料と、相馬資料ネットの活動の写真。左側の展示は、鈴木龍郎さん宅のふすまの下張り=2023年9月3日、シンポジウム会場

資料類の中に「嘉永四(注・1841)年亥三月吉祥日 永代 日記」と題された新発見の文書があり、江戸期の商業に詳しいメンバーの斎藤善之東北学院大教授=宮城歴史資料保全ネットワーク理事長=が読み解いた。「野崎家は近江商人を祖とし中村城下に根付いた商家。日記とあるが、経過が克明に記録され、地域そのものの歴史、江戸後期の商人の活動を知るための重要な資料。廃棄を免れたことで見えてきた歴史だ」と意義を語った。 

08年に歴史景観保全を訴えた岩崎さんは、野崎邸と築地塀があった当時と、隣接した新開楼という風格ある木造旅館も解体されて空白の風景になった現在の写真を比較し、「あっという間に姿を変えた現実を見ると、敗北感、挫折感が湧き上がってくる。共有の財産であるべき景観の破壊、共有されるべき歴史を証明する実物の滅失。そのことに『ためらい』を持ってもらいたい。地域の歴史、文化は市民が守り伝えるべきもの」と訴えた。 

「懐かしい未来」を求める運動 

成果も課題もある模索の1年を、メンバーの阿部浩一福島大教授(ふくしま歴史資料保存ネットワーク代表)は「これまで全国に約40団体の資料ネットが活動しているが、市民主体の活動は初めてで、これは特筆すべきこと。同郷で相馬高校同窓会(馬城会)の絆があるがゆえ、外からの支援を待たずとも、迅速な結成と活動ができた」と高く評価した。 

その上で、「最大の課題は行政との連携。救出資料の保管場所が課題というように、地元相馬市の理解と協力はぜひとも欲しい。新しい文化財保護法では、価値の定まっていない文化財も保全、活用し、地域社会が継承に取り組むと謳われている」と実現を促した。 

「そして、本当の市民ネットになるため、参加する市民の輪を広げたい。救出資料は、ほこりを払うクリーニングをして撮影し、封筒や箱に入れて整理し目録を作成するという根気の要る作業で、多くの人手が必要。相馬高校生、福島大生や有志のボランティアを得て続けている状況。市民の皆さんに、ぜひ活動に関心を持って参加していただきたい」 

同郷の一人として、またジャーナリストとして参加する筆者は、震災・原発事故被災地の多くの人々が、古里やその原風景をなくした喪失感に苦しむ現実を、今も続く見えない災害、心の傷として紹介し、城下町の消失が進む相馬市民も同じ現状にあると指摘した。 古里のかけがえない文化を守ろうと資料ネットの運動が全国に広がっているのも、災害多発や地域衰退、行政主導の復旧復興や再開発の現実に抗う人々の思いがあるからだろう。 

「皆、何を求めているのか。まっさらに壊したところに新しく造成する未来か、それとも、自分たちの歴史や過去につながっている未来か。言葉を変えれば、『懐かしい未来』に皆、生きたいんじゃないか。そうま資料ネットの活動は、『復興』の本当の意味を問いかける、懐かしい未来のある街に生きたい仲間を広げようという運動なのではないか」 

「全国で唯一」とは、そんな当事者たちの運動だから。木造家屋の修復も許さず、解体のみに公費を出す現制度の下、被災地の現実と向き合いながら、活動は続いてゆく。 

                   ◇ 

シンポジウムに参加した奥村弘・歴史資料ネットワーク代表委員(神戸大学教授)の話 

「公費解体の問題は阪神淡路大震災の時からあり、木造の建物であれば梁の強化によって補強できるのに、すべて壊したらいいのか、論議された。早いこと意思決定をして、新しい家を建てるなら金を出す、と。1戸1戸の家の文化や暮らしに根差し、その家を復旧するやり方にはお金が出ない。それは、もう一度地域づくりをすることを支援する制度になっていない。その未解決の問題に最も激しい形で襲われたのが、相馬の事態ではないか。 

イタリアで地震被害の後、全く同じ建物をもう1回その場所に建てようとする復旧の仕方があるのを見た。祖先が一生懸命に作ったものが、未来にどうしてくれるのかと今、私たちに問い掛けている。相馬にはまだ、神戸ではすっかり失われてしまったものがある。相馬の議論を共有しながら、全国の資料ネットの仲間と共に連携、支援していきたい」 

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