風評と闘い「醤油日本一」6回の相馬市・山形屋商店。相次ぐ大地震で傷む工場と160年来の米麹を守って続く挑戦 

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】「山形屋」といえば古い店構えと伝統の味噌・醤油で、福島県相馬で知らぬ人はいない醸造元だ。5代目店主の渡辺和夫さん(53)は、旧城下町で創業から160年という伝統の米麹(こうじ)を受け継ぎ、東日本大震災の被災と福島第一原発事故の風評に「日本一の品質の醤油造りを」の志で奮闘。昨秋の全国醤油品評会では、過去10年間で6回目という最高賞に輝いた。近年相次いだ震度6強の地震で醸造施設や蔵は傷み、不安も背負いながら、「相馬の復興に役立ちたい」と挑戦を続ける。 

                     

相馬名物の甘酒、日本一の醤油の店 

相馬の新年は甘酒で始まる。地元出身の筆者の感慨だ。元朝参りでにぎわう中村神社(相馬野馬追の出陣地)では、初詣客に大釜の甘酒で暖を取ってもらうのが習わしで、長年提供してきたのが山形屋。今月14日、「相馬ふるさと行事」として催された45回目の「どんと祭」でも、「濃縮した甘酒20㌔の樽を四つ、1600人分」を振舞った。火入れをした午後4時から1時間余りで、すっかりなくなったという。「飲む点滴、飲む美容液」と昨今人気の甘酒。山形屋のものは上品な甘さと深いコクが独特で、同市中村上町の店には5袋、10袋と買い求める常連さんが絶えない。 

創業から160年の山形屋と5代目の渡辺さん。失われゆく城下町の歴史を伝える貴重なたたずまいだ=2024年1月19日、相馬市中村上町 

「うちの甘酒は、創業以来の米麹の味なんです」。山形屋は前身の生糸の店から転業し、文久3(1863)年に米麹造りを本業にした。「きっかけは不明だが、米麹はより幅広い需要があったからでは」と渡辺さんは話す。そのうまさが評判を呼び、やはり江戸期から続く同県伊達市の名産品「紅葉漬」(こうようづけ・秋サケの切り身の米麹漬け)にも、「今も30㌔詰の樽を20本、毎年納めています」。 

取材の朝、紅葉漬向けの米麹出荷のトラックを見送った渡辺さんは、古い商家造りの店に戻ると、醤油を求める年配の女性客と笑顔で語り合った。愛用するという「ヤマブン本醸造特選醤油」(ヤマブンは山形屋の屋号)は、2014、15、17、18年の全国醤油品評会で最高の「農林水産大臣賞」に輝いた看板商品で、渡辺さんの人生と山形屋に大転機をつくった醤油だ。それを語るには、東日本大震災が起きた11年3月11日まで時を遡らねばならない。 

店頭で長年のなじみ客と談笑する、渡辺さん(左端)と娘の絢華さん。山形屋は市民の日々の暮らしとつながっている 

震災の被害に追い討ちを掛けた「風評」 

「午前中に火入れをした醤油が醸造所のタンク(2㌧入り)いっぱいに入っていた。激しい地震で、土蔵の倉庫に積んだ出荷前の瓶詰醤油1500本が崩れて割れ、床いっぱいの海。タンクも揺れて半分こぼれ、ペットボトルの醤油だけが無傷だった。翌日から店を開け、片付けに20日間も掛かった。店に来る人に味噌の材料のコメを分けてあげ、津波の被災者が入った避難所にも醤油、味噌、コメ、塩、砂糖などを提供した。商売どころではなく、地元の店の役目、生き方だと思った」 

震災2日目には約45キロ南の福島第1原発で水素爆発事故が起こり、事態は深刻化した。相馬市内に政府の避難勧告は出されなかったが、自主避難をする人は相次いだ。先が見えぬ不安の中、渡辺さんは従業員に給料を渡し、「避難して、1カ月したら連絡してほしい」と帰した。屋根の瓦は割れ、ぐし(棟木)も崩れたが、醤油の醸造所は奇跡的に無事だった。その状況下で渡辺さんと家族と踏ん張り、1カ月後、約束通り避難先から戻った従業員と醤油の生産と販売を再開できたという。 

「それからの福島応援ムードを一気にしぼませたのが震災翌年、第一原発の汚染水流出事故の風評」と渡辺さんは回想した。山形屋はカナダ産の小麦を醤油の原料にしていたが、県内の醸造元全体の売り上げは震災前から半減。その影響は汚染水流出の報道が流れる度にぶり返し、福島の魚介、農畜産物から観光、人の往来まであらゆるものに及び、県外避難者への差別、いじめまで起きた。 

度重なる地震の傷跡が残る土蔵の貯蔵庫。2011年3月11日には、中の出荷前の瓶詰醤油がすべて割れ、海のようになった 

福島の知恵を結集した研鑽と快挙 

「小さな業者の努力では限界」と渡辺さんが苦悩していたころ、「勉強会を始めませんか」という連絡が舞い込んだ。福島では県醤油醸造協同組合が1964年から、ベースの「生揚げ」を一括生産し、県内の醸造元に供給する共同式が定着し、震災の被害からの立ち直りと製造再開も東北他県より早かった。危機を乗り超える知恵を集める共同研究を組合が呼び掛けたのだ。掲げられた目標が「日本一」だった。 

その意図について、以前、渡辺さんから聴いた印象深い言葉がある。「検査をし、数値で安全を伝えるだけでは足りない。福島というだけで『不安だ』『中身に何か残っているのでは』と人の心に根差す不安が風評。ならば、人の心を動かすほど確かな品質を証明しなくては。それには最高の舞台の全国醤油品評会で『日本一』になること。組合員たちは本気で日本一を目指す気持ちになりました」 

醤油造りの現場に立つ渡辺さん。原発事故の風評を跳ね返す「最高の味と品質」を追求している 

全国醤油品評会は1973年から財団法人日本醤油技術センターが毎年催すコンテスト。各県予選を経た県代表の商品が東京の本選に出場し、「色」「香り」「味」が吟味され、わずか4点に最高賞の農林水産大臣賞が贈られる。勉強会では、品評会で上位入賞した全国の醤油を取り寄せ、組合員たちが「利き味」をして意見を出し合った。県工業試験場の研究員にも参加してもらい科学的分析のデータも共有した。 

渡辺さんは、もともと福島の大東銀行の行員で、3代目店主の正雄さんの3女・文江さんと結婚し婿入りした。誠実な人柄を見込まれ、3年前に他界した4代目の後継を託されたのだ。が、特別扱いは一切されず、「店主自ら造るべし」という家訓を醤油造りの現場で仕込まれ、その修業は震災翌年、正雄さんが亡くなるまで続いた。家訓である「店主自ら造るべし」のプライドも背負い、全国醤油品評会に挑んだのは2014年。研鑽を注いだ「ヤマブン本醸造特選醤油」は県予選を通過し、7月にあった41回全国醤油品評会へ。最激戦部門の「こいくちしょうゆ」で最高賞の農林水産大臣賞に選ばれた。風評に苦しむ福島の人々にとっても大きな朗報になった。 

浜の味を引き立て「復興」支えたい 

渡辺さんが造る醤油はさらに快挙を重ねた。22年の全国醤油品評会では「うすくち醤油」を出品、東北の醸造元で初めて同部門の最高賞に。繊細な懐石料理などに欠かせぬ「うすくち」は関西が本場だが、開拓者精神の挑戦で「初めて白河の関を越えた」が渡辺さんの感慨だった。 

そして今、店のカウンターには「祝日本一 令和五年度 第五十回全国醤油品評会」と書かれた新たな栄冠の小さな幟が飾られている。昨年、通算6回目の農林水産大臣賞に選ばれたばかりの「ヤマブン別上こいくち醤油」。そこには「地元で愛されてきた港町のこいくち醤油」と銘打たれている。渡辺さんに理由を問うた。 

「これは大量に造る品ではなく、地元相馬の漁師さん、浜の旅館、料理屋さんに出している、いわば個人向けの醤油。たとえば船の上のまかない飯。潮風に当たり疲れた体には、少しでも甘い方が食欲をそそるでしょう。捕れたての新鮮な魚にも合う。『こいくち』を伝統的に愛好してくれたのは、浜の人たちだったのです」 

山形屋の醤油と快挙を紹介する、観光施設「浜の駅」の商品棚。土産物としても人気だ=相馬市の松川浦 

あえて「地元の味」で挑戦した渡辺さんの着想には、相馬の浜によみがえりつつある活気への期待があった。4年ほど前からフグでにぎわう松川浦漁港の光景だ。現在の福島全体の水揚げ量はまだ震災、原発事故前の2割程度。風評に抗いながら「復興」を模索している途上。その中で相馬での水揚げが増えているのが、フグ料理の食材のトラフグ。相馬双葉漁協のトラフグ水揚げは、22年に37㌧と全国トップになり、4年間で10倍以上に増えた。漁協や相馬商工会議所などは「福とら」のブランドで売り出し中で、希望の資源を末永く守る漁獲手法も今期から始まった。 

「フグを目玉にする割烹や料理屋、ホテル、旅館が増え、相馬が一丸になっている時。それらフグ料理の食卓に山形屋の『こいくち』があります。まろやかな甘み、伸びのきく味、鼻から入り食欲をそそる香り。これまでのどの銘柄とも違う。相馬の浜の味を最高に引き立てる醤油を味わってもらい、『復興』に役立てたら」 

福とらが旬!相馬冬の新名物 天然とらふぐ『福とら』| (soumafukutora.com)= 

「こいくち」の日本一選出はこれまでにない、予期しない反響も呼んだ。50回目の記念大会だった全国醤油品評会の総合司会が、TBSアナウンサーの安住紳一郎さん。日本醤油協会の「しょうゆ大使」も務める安住さんは、自身のラジオ番組で山形屋の「こいくち」の快挙を取り上げ、渡辺さんを「10年で6回も日本一になった天才」と紹介した。「あれはあまりに恐縮でしたが、店のネット通販に注文が相次ぎ、(福島の)中通りや宮城県から店に買いに来てくださったお客さんもいます」 

相馬・松川浦の観光施設「浜の駅」や南相馬のイオンには、山形屋の醤油専用商品棚も設けられ、日々の食卓の味と同時に、相馬を代表する土産品にもなった。 

【山形屋】 日本一に選ばれた、醤油・味噌の老舗醸造店 | 美味いもん 相馬本家 (soma-brand.jp) 

相次ぐ地震災害に耐え、城下町の文化も守る 

「しかし」と渡辺さんは腕を組んだ。「福島の醤油全体を見れば、売り上げはまだ震災前の半分のまま。醸造元の後継者難、廃業もある。私たち相馬、浜通りの復興への歩みさえ、これから30年以上も放出が続く『原発処理水』から風評が再燃すれば、せっかくの応援の機運も吹き飛んでしまいかねない。あの経験は忘れない」 

相馬は大震災以後も、21年2月、22年3月に震度6強の大地震に繰り返し襲われ、多くが古い木造の1100戸以上の家屋が傷みに耐え兼ねて解体されている。創業から160年を重ねた山形屋の建物も「明治2年の相馬の大火を免れ、その後に補修はされても、造りはそのままだと思う」と渡辺さん。近年の相次ぐ地震でも建物は持ちこたえたが、工場の高い天井の配管が壊れ、また明治期の土蔵を利用した瓶詰醤油貯蔵庫の壁も割れた。全壊判定を受けながらも、「取り壊して改築するところだが、裏が城の外堀に接して工事が容易でないと言われ、修理でしのいでいる」。 

山形屋の建物そのものが、相馬の街に残る貴重な文化財でもある。歴史をひもとけば、天明の飢饉の後の旧相馬中村藩を復興させた偉人に二宮尊徳がおり、その教え(二宮仕法)を守った領民に、藩は「御仕法造り」という簡素な木造住宅を褒美に与えたという。「この店も仕法造りなんです」と渡辺さん。細い柱など部材を節約しながら質実な家屋を建てたという御仕法造りは、市指定有形文化財になっていた古い農家(旧佐藤家)が「最後の一軒」と言われたが、すでに姿を消している。 

東日本大震災の後も相次ぐ地震に耐える工場。天上の配管も修理を重ねてきた 

山形屋は現役そのものであり、「2階も住まいとして使っています」と渡辺さん。その一室には、戦後、日本国憲法の私案「憲法草案要項」(1945年12月発表) をまとめた鈴木安蔵(旧相馬郡小高町生まれ)が旧制相馬中学時代に下宿していた、と教えてもらった。そんな歴史の由緒もある店なのだ。 

この近隣はかつて、古い武家屋敷や商家が連なる城下町の面影を残していた。しかし、前述の度重なる地震災害で解体、撤去が相次ぎ、山形屋の西隣に並んでいた藩制時代からの生糸問屋「鈴木軍平商店」も昨年、解体された。「ご主人は建て直しをするつもりでいたが、最近の原材料費高騰のあおりで、建築資材が1.5倍にも上がり、再起を諦めたそうだ。あと3年で築100年になると残念がっておられた」 

「私も、城下町の歴史を受け継ぐ建物と生業をいつまでも残したい。次の大きな地震がいつ来るかは分からないが、何とかがんばるしかない」と渡辺さんは話す。  

原点の米麹と「希望」の家族と 

しかし、渡辺さんは孤独な闘いをしているのではない。双子の娘ゆきのさん、絢華(あやか)さんが山形屋の暖簾の下で働いている。2人は東京で大学を卒業し、就職した後、16年の春にそろって帰郷した。古里の震災、原発事故を遠くで知り、心配を募らせながら、渡辺さんの奮闘と栄冠のニュースに感動。「何かできることを一緒にしたい、後悔をしたくない。父を手伝えたら」と語り合ったという。共に「発酵マイスター」(日本発酵文化協会)の資格を取得し、新商品開発の考案やウェブの発信、日々の店の応対などに忙しい。「360ミリリットルボトル、100ミリリットルの小瓶入りの醤油も、娘たちの提案で売り出しました」。渡辺さんには「希望」の家族だ。 

「私が醤油造りで毎年挑戦をできるのも、山形屋160年の歴史の『原点』である米麹があるから。『生揚げ』を県内の醸造元が共同生産している今も、うちでは1年1年新しい米麹づくりを続けています。創業当時からは、はるかに発酵の知見と技術は進化し、その研究成果を生かしながら、うちの米麹で伝統食品づくりを守る業者さん、自家製の漬物や麹味噌を造る地元のお客さん、なじみの甘酒ファンにも応える味を届けさせてもらっている。それが店の『命』なんです」。渡辺さんはこう語った。 

「店の原点」という米麹。1年1年、店主自らが研究、吟味し造り続ける

取材が終わり、筆者も名物の甘酒を土産に買った。大震災の被災地となって、もうすぐ丸13年を迎える郷里相馬の現状と同様、まだまだ続く冬の寒さを思い、山形屋の米麹の温もりと甘さ、強さに心救われる気がして。 

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