【寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】真新しい家並みを縫って飛ぶツバメたち。その一つがいが、名取市閖上の自治会長、長沼俊幸さん(60)の家に巣を作った。古い漁港の街だった閖上が東日本大震災の津波で失われた2011年。前年までツバメは家の中にも巣を作り、いつも玄関を開け放つのが一家の暮らし方だった。今年のヒナも育ち、「昔が戻ったよう」と長沼さん。コロナ禍でこの数年、行き来を妨げられた尚絅学院大の学生たちも先月、長沼さんを訪問し交流。心の傷いまだ癒えぬ被災地の人々に、うれしい年となるか。
大学生のバスツアーが閖上に
尚絅学院大の学生ボランティアチーム「TASKI」主催の今年度最初のバスツアーが閖上を訪ねたのは6月18日。TASKIは、閖上の被災者を地元学生が支援しようと12年に結成。仮設住宅でのお茶会など交流活動をしてきた。バスツアーは多くの人に閖上に触れてもらう企画。毎年の新入メンバーの最初の行事でもある。
「この3年、コロナ禍で学外活動にも制約があり、去年のツアーは8月にようやくできたが、閖上の皆さんとの集会所のお茶会は見送りに。残念でした」と代表の千葉壮馬さん(20)=心理・教育学群 心理学類3年=。だが今年は、1年生ら新入会員が10人も参加した。
日曜日恒例の「ゆりあげ港朝市」や新名所「かわまちてらす閖上」を巡った後、一行は、地元のシンボルで震災遺構でもある日和山(海抜6.3㍍)へ。待っていたのは長沼さんだった。ふもとにある、1933(昭和8)年の昭和三陸大津波の後に建立された、『地震があったら津浪に用心』と刻まれた石碑を学生たちに紹介した。
「先人の警告が忘れられ、私たちは上の世代から『閖上に津波は来ない』と聞いていた。津波に関心も恐怖心もなく、12年前のあの日、みんな逃げられなかった」と長沼さん。約6500人が暮らした閖上で津波の犠牲者は約800人に上り、「それほどの人が一つの町(地区)で犠牲になったのは閖上しかない」と無念の思いを込めた。
日和山に学生たちと上り、震災メモリアル公園や周囲の広大なかさ上げ地、再建された新しい閖上の街を眺めながら、長沼さんはこう語った。「震災前の閖上を思い出せる場所は日和山だけ。昔遊んだ、自分が知っている閖上の町はどこにもない。あるのは、見たことのない街だ。きれいになり、良くなったものもたくさんあるが、懐かしいものが一つもないのは寂しい。それ(喪失感)も震災なんだ」
長沼さんは「匂い」を述懐した。閖上大橋のあたりにはかつて水産加工場が並び、シャコエビを捕る網がたくさん干され、引っ掛かったエビ、カニなどを木槌でたたいて除くのを手伝わされたという。「くさい匂いに、仙台から来た客が顔をしかめていた。それも閖上の匂いと思うと懐かしい」。今のきれいな街には何の匂いもない。
新しい街に募る寂しさ、消えぬ震災
5月26日(日)、東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた名取市の閖上地区で、「閖上地区まちびらき」が盛大に開催されました。閖上地区では昨年4月には閖上小中学校が開校し、12月には463戸の災害公営住宅が全戸完成、本年4月には新たな商業施設「かわまちてらす閖上」がグランドオープン、5月には閖上公民館・閖上体育館が開館と、着実に復興が進んでいます
19年の復興庁ホームページより
復興大臣が来て祝辞を述べ、お祭り行事や多くの出店、ステージイベントなどに約2万人が詰めかけた。先立つ同年3月に閖上中央町内会が発足し、長沼さんが初代会長に選ばれた。「仮設住宅から越してきて間もない時に、人がわんさかとやって来た。急ににぎやかになって、『気持ちがついてゆかない』という人が大勢いた。私自身も『何か違う』と、ずれを感じていた」と振り返る。仮設住宅に最後まで残り、公営住宅(復興住宅)に移ってきたのは高齢者たち。6年半に及んだ仮設暮らしでは、長沼さんが役員を務め、毎日のようなお茶会で被災者同士のコミュニティをはぐくんだ。ところが、復興住宅の入居は抽選で決められ、絆はばらばらに…。
再建された閖上の街は、新しさと環境の良さ、ビジネスチャンスもあって、外からの移転者が3分の1を占めるという。震災前からの旧住民との交流、新しいコミュニティーづくりこそ、町内会長である長沼さんの一番の仕事だが、それはいまだ道半ばだ。「戸建ての住宅地なら、毎日の顔合わせ、あいさつが重なれば、だんだんとコミュニティーはできていく。が、(アパート型の)公営住宅では、たまに顔を合わせても、部屋に閉じこもる暮らしになると住民同士の関係も発展しない」
震災から12年、閖上の「まちびらき」から4年が過ぎても、人の心や絆の「復興」は遠いままと長沼さんは思う。「あの日の津波は、大地震から時間をおいてやって来た。外からは分からないまま、少し落ち着いたと見えるころに、埋めようのない寂しさはやって来る。それも震災、心の災害なんだ」と繰り返した。
震災翌年からTASKIは、長沼さんのいた仮設住宅で住民の暮らしを応援し、お茶会や歌の集い、季節行事を催し、長く寄り添ってきた。そして今、世代交代も重ねた学生たちは、新しい街での「ボランティア」の次なる役割を模索している。
話に聴き入っていた一行に、長沼さんは呼び掛けた。「この街に移って、体調を崩したり、入院したり、亡くなった人もいる。1週間、外に一歩も出ず、人と話をしなくなった人もいる。自分の古里だったのに。ボランティアって何か?。それを知るにはまず、ここで話を聴くことが大切だよ。心が通じるまで通ってみてほしい。まちづくりの難しさ、その途中で手探りしている私たちを知ってほしい」
ツバメがよみがえらせる震災前の日々
ツバメがわが家に帰ってきたよーと、ぽつり、長沼さんから聞いたのは、バスツアーの日の別れ際だった。気になって7月上旬、あらためて自宅を訪ねた。巣を見つけたのは母屋の隣の事務所(ご本職は水道工事業)の軒下。換気口の上にちょこんと、しかし、しっかりと、わらくずと土で編まれたマイホームだ。小さなヒナが顔を出し、くちばしを広げ、さっと飛んでは戻る親鳥たちに餌をもらっていた。
優しい目で見守る長沼さんは震災前に思いを馳せた。
「旧閖上6丁目にあった家に6年間くらい、ツバメが巣を作っていたんだ。最初は玄関の軒先に。ヒナはカラスにやられたが、次の年には4~5羽生まれた。それからは、もう一カップルが玄関から入ってきて下駄箱の真上に巣を作り、さらに震災の前の年には玄関前で一家族、家の中で三家族が巣作り、子育てをしたよ」
家の中に巣作りされたのは、人にもツバメにも安心できる環境だったから。以前、閖上で被災したある母親を取材した際、「隣近所が皆、親戚のような付き合いで、昼は施錠をする習慣もなく、互いの家を行き来して世話を焼き、助け合ったの」と懐かしむのを聴いた。 長沼さんもこう語る。
「うちでも、家族が不在の時でも玄関は開けっ放しで、じいさん=栄三郎さん、昨年90歳で他界=が夕方、ツバメの数を数え、無事に帰ってきているのを確かめてから戸締りをした。毎年初夏の飛来から巣立ちまで、同居の家族だったんだ」
震災が起きた12年前の3月11日、長沼さんは奥さんと自宅ごと津波で流されて3㌔先に漂着し、九死に一生を得た。それからは避難所、仮設住宅へと生活は激変した。
「あの年も、ツバメたちは季節を忘れずに来たかもしれないが、何もなくなっていて、さぞびっくりしたことだろうな」「あのころの閖上の懐かしい暮らしを、少しだけ、ツバメが運んできてくれた。もちろん、いいニュースだ」
長沼さんはこの後も毎日、ツバメの家族を見守り、観察している。カラスの被害はなく、それから2羽のヒナがかえったが、巣から落ちてしまった、と電話で残念がったが、「最初のヒナは無事に巣立ちをしたよ」と安堵の声を響かせた。震災の傷である、埋めようのない「寂しさ」は歳月とともに心に重く増してゆくが、歳月のもたらす変化の訪れが心を癒すこともあるのだろう。長沼さんにとっては、毎年、新たな顔ぶれで閖上を訪れる大学生たちとの交流も、かけがえのない支えになった。
見えない現実を聴き、新たな交流へ
〈 “震災に終わりはない”長沼さんがおっしゃっていた言葉であるが、被災したからこそ言える言葉でもあるように感じられる。震災前の閖上を知らない人は「綺麗になって良かったね」と、そんな言葉をかけるが、それだけでは終えられない〉
〈仮設住宅にて、長い年月を経て形成してきたコミュニティが、復興公営住宅に移り住むことによって、0(ゼロ)に戻るのではないか。(実際に復興公営住宅に行きたくないという人までいたという。)我々大学生ができることは何だろうか〉
〈現在若い人と高齢者のコミュニティ形成が難航しているという話も長沼さんのお話の中で触れられていた。コロナウイルスが5類に下がり、規制も緩和されつつある為、お茶会等を通して地域の方々との交流を深め、同時に年齢の近い若者たちとも交流を行うことによって、双方の橋渡しのような役割を担うことができるのではないだろうか〉
6月のバスツアーに参加した「TASKI」の新入会員の感想のごく一部だが、13年目の被災地の見えない現実を聴き取り、問題意識を持ち帰ったことが伝わる。
「今年度の活動に手応えを感じました。まず夏休みに、閖上の集会所で『お茶会をしよう』と企画中です。夏と秋の祭り、クリスマスのパーティーも。子どもたちと遊ぼう、という企画も長沼さんが温めています」と、代表の千葉さんは話す。
企画班の中野愛菜さん(20)=人文社会学群 人文社会学類2年=は気仙沼出身で、自身も小学1年で古里の被災を目の当たりにしたという。「去年、山形の高校生たちと一緒に災害を考える『ジモト大学』というイベントを催して、伝えることの大切さを知り、当事者の気持ちをもっともっと聴きたい思いを強くしました」と語った。
ようやくコロナ禍の霧は明けて、被災地に若者たちの姿もまた帰ってきた。
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