コロナ禍に屈せず来訪者を待つ 名取市閖上の語り部の震災10年

東日本大震災から、きょう9月11日で10年半を迎えました。新型コロナウイルスの影響で震災伝承施設への来場者が大きく減る中、震災の体験を語り継ぐ「語り部」のみなさんはどのような思いで活動を続けているのでしょうか。ローカルジャーナリストの寺島英弥さんが、宮城県名取市閖上で語り部を続ける女性を訪ねました。

※この記事には津波で被災した2011年6月の閖上の写真が掲載されています。

学校の来訪予約がキャンセル

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】2011年3月11日の東日本大震災から10年が過ぎた被災地、名取市閖上を訪ねた。津波で家々が失われて、住民約750人が亡くなった浜の町(被災前の人口約5600)は今はなく、厚さ約3メートルのかさ上げ(土盛り)と新たな区画整理が行われた広大な平地の一角に、新しい災害公営アパートや住宅、商業施設が立ち並びつつある。

閖上ににぎわいを生んでいる名所「閖上港朝市」の隣に津波復興祈念資料館「閖上の記憶」がある。津波で生徒14人が犠牲になった閖上中学校の跡に、遺族会が建てた慰霊碑を守る施設として、応援するNPO法人「地球のステージ」が12年4月に開いた。解体された校舎の形見の品々や生徒の遺品が展示され、閖上の記録映画も上映される。修学旅行の児童生徒を中心に毎年1万人余りが訪れ、地元の語り部たちの伝承活動の場になってきた。

かさ上げされ広大な平地となった閖上で、震災前の町を回想する語り部の丹野祐子さん=2021年9月7日

ところがコロナ禍のため、毎年仙台から閖上に足を延ばしてくれた東北五県からの修学旅行は軒並み「自粛」に。昨年の来館者は三分の一に減り、今年も、9~10月にあった地元・宮城県内の小学校の秋の遠足の来館予約10件以上がキャンセルになったという。

「去年はコロナ禍がちょっと落ち着いた9月に、修学旅行を延期して遠足に切り替えた地元小中学校の予約がばたばたと入って、子どもたちが1000人くらい来館してくれた。活動ができない今の状況は残念ですが、私たちにはどうしようもない」

9月上旬に訪ねた「閖上の記憶」の館内で、語り部の丹野祐子さん(52)は語った。

多くの友と一生の「さよなら」

丹野さんは地元の被災者で「現地再建」を選び、3年前に仮設住宅から家族と閖上の新居に戻った。語り部を始めたのは12年5月。閖上の被災者の心のケアを支援してきた、「地球のステージ」代表理事の桑山紀彦医師が勧めた。海外の紛争地域でボランティア活動をしてきた桑山医師は、家族を殺されたり難民になったりした人々が、愛する死者への思いを語ることで心を保ち続けた、という体験を紹介しくれたという。

「テレビでは被災地の美談が流され、閖上のような無名の被災地は取り上げられず、行政は『復興』を掲げて新しい街づくりへ進もうとしていた。ここで起きたことが忘れられると思った。私は聴いてほしかった、なかったことにされたくなかった」

被災した閖上中学校の形見の机を見る、語り部の丹野祐子さん=「閖上の記憶」で、2021年3月7日

丹野さんは10年前の3月11日、閖上中1年生の長男公太さん=当時(13)=を亡くした。その日の中学校では、3年生だった長女の卒業式があり、午後は近くの公民館で謝恩会が催された。丹野さんは仙台から閖上に嫁いできた人だが、近隣はもとより、町中が親戚のような人のつながりがあり、同級生の母親たちの付き合いも姉妹のように和やかだったという。謝恩会のさなかの午後2時46分の大地震があり、「気を付けてね」と手を振り合って別れた友の多くと、「一生の『さよなら』になった」。

津波襲来、わが子の死

夫は仙台の職場にいた。丹野さんは近くの実家に行って義父母の無事を確かめ、2人の子どもと公民館のグラウンドに避難した。「誰かが『津波は来ない、大丈夫』と言った。過去に閖上で津波の被害はなく、「人は未経験のものを想像するのは難しい」と丹野さんは振り返る。津波警報を携帯ラジオなどで聞いた人はいたが、防災無線は鳴らなかったという。やがて、町の家々の間に火事と見まがう黒い煙がもくもくと上がり、「津波だ!」という男性の声が上がって、公民館にいた丹野さんら28人の住民は2階に駆け上がった。

黒い煙は、津波が町を押しつぶす土ぼこりだった。後から墨汁の様に真っ黒で油の浮いた水が押し寄せ、さっきまでいたグラウンドにあふれた。丹野さんは、ちょっと離れた所で公太さんが友達らとボールをけっているのを見ていたが、「津波の水が来た時、振り返ったら息子の姿が見えなかった」。

震災から1年半後、津波被災の遺物が残る閖上=2012年9月20日、筆者撮影

グラウンドで渦を巻いた黒い水は2階まで上がらず、夜になり、避難した人たちは幕やカーテンを外して身を寄せ合った。「暗くなる前に町が、自宅がなくなったのがわかった。実家あたりもがれきの山になっていた。空は悔しいほどのきれいな星空だった」。 自分たちだけが生き残ったのか、と誰もが思ったというが、普段なら歩いて5分ほどの中学校の屋上に人影が見え、隣にあった児童センターからは「助けて」と声がした。

翌日の昼、変わり果てた町を夫が歩いて公民館にたどり着いた。小学校、中学校を回って義父母と公太さんを探しながら。再会を喜んだが、「捜しに行こう」という長女に、夫は「無理だ」と言ったという。「私よりも先に、『もうだめだろう』と悟ったのかと思いました」と丹野さん。自衛隊が板や畳を渡して道を設け、公民館にいた人々は中学校に避難できた。その日から、丹野さんは公太さんと義父母を捜した。

「誰かに助けられているかもしれない、病院に運ばれたかもしれないと思い、会う人ごとに『息子を見ていませんか』と尋ね、避難所を巡った」。再会できたのは遺体安置所だった。津波から1週間後に義母、2週間後に公太さん、1カ月後に義父と。

震災から1年半後、日和山からの閖上=2012年9月20日、筆者撮影

「生きた証」の慰霊碑

「何年かして、公太と『中学校へ一緒に走った』と教えてくれた子がいた。『途中で見えなくなった』と。それ以上は聞けなかった。ひつぎの中の息子を抱きしめてあげられなかったのが、今でも後悔の一つです。『津波なんて来ない』と、私も息子にうそをついた。なんで私が生き残っているのか。お化けでもいいから会いたい。でも出てきたら、何と謝ったらいいのか」

公太さんの成長記録の写真もほとんど流されていた。やがて周囲も、行政も、ニュースも、生きている人のことや復旧、復興が優先になり、丹野さんは「公太が生きた証を、私が残さなければ」という一念を強めていった。

東日本大震災の津波で被災した閖上の町=2011年6月11日、筆者撮影

「孤立した思いに悩み、もがいていた時、アドバイスしてくれたのが桑山医師でした。一人で苦しまず、ほかの人にも声を掛けてみたらいいよ、と」

閖上中の亡くなった生徒14人の親たちに、個人情報の壁にぶつかりながらも学校の協力を得て連絡を取り、11年11月に遺族会を立ち上げた。話し合ったのは、慰霊碑の建立だった。

「わが子と一緒に亡くなったお母さんも多い。遺族には、一切連絡の取れない人、拒絶する人もいた。家族の死を受け止められないのは当たり前。でも、急がなければ忘れられてしまう、なかったことになってしまう、という思いが私を前に進ませました」

被災した閖上中の敷地に、慰霊碑が建立されたのは翌12年3月11日だった。滑らかな黒御影石には、『東日本大震災の津波により犠牲となった閖上中学校の生徒の名をここに記す』という簡潔な碑文と、生徒一人一人の名が学年ごとに刻まれている。

「触ってもらう碑なのです」と丹野さん。「生徒たち自身のように肌で感じてもらい、触れ合ってもらうのです。除幕式の時、私はこの碑を思わず抱きしめました。『ああ、抱きしめる碑なんだ』と誰かが言ってくれ、いつでも温もりある碑にしようと私たちは誓いました」

閖上中学校の生徒14人の慰霊碑に触れる丹野さん=2021年9月3日、名取市閖上 

被災した校舎が15年に解体された後も、慰霊碑は新しい閖上中開設に合わせて移転され、亡くなった生徒たちは母校の後輩らの声にも包まれている。丹野さんは、「閖上の記憶」の来館者たちと被災地を案内して歩く時、慰霊碑の前で母親としての辛い体験と思いを語っている。それは、公太さんといつも一緒に生き続けることでもある。

逃げていいんだよ、と子どもたちに

長引くコロナ禍のために来館者の流れが止まってしまった間も、丹野さんは考え続けている。「決して伝承が危機となっているのではなく、今は自分を顧みて整理し直す時。今まで、よく調べられずにいたことを調べ直したり、新しい活動の在り方を『閖上の記憶』のスタッフと勉強会をやったりして、いざ再開という日に備えています」

「震災から10年」というが、それは、語り部として1時間の行程で語るには余りに長い時間になった。来館者が現地で目にするものは「閖上の今」の風景だ。まして、震災の記憶そのものが薄い小中学生には、「10年前」を話すだけでは理解してもらうのが難しい。

「私自身、10年間のすべてを覚えているわけではないし、都合のよい記憶になってしまっているかもしれない」と丹野さん。語り部は、閖上の「今」につながる時の流れも伝えなければならない。閖上の未来について知りたい人もいよう。

それに、丹野さんがこれからの子どもたちに伝えていること、伝えたいものは、ただ「津波は怖いもの」という教訓譚ではない。それは、こんなふうだ。

「生きているって、当り前のことじゃないんだよ」「隣にいる友だちに突然、『さよなら』をしなきゃならない子たちがいたんだよ」「いま、周りにあるものが突然なくなったら、どうするの?」「親ってウザいかもしれないけれど、親より先に死んではだめだよ」「『死ぬ』とか『死ね』とか、決して言ってはいけないよ」

「10年前の震災で、あれほど『命』が大切と皆が学んだはずなのに、子どもの命が今ほど失われているときはない」と丹野さんは、いじめなどが原因の子どもの自死が地元宮城県の小中学校でも相次いでいることに胸を痛める。「もっと生きられた命、生きたかった命がたくさんあったはず。追い詰められて死を選ぶくらいなら、逃げればいい、逃げていいんだよ、と私は言ってあげられる」

ここは津波のことを伝える場所ではなく、「『命』って大切なのだよ」と伝える場所。閖上を訪れる小中学生たちに、一人でも多く、公太さんの命のバトンを手渡したいと願う。

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