東京で陸軍青年将校が起こしたクーデター未遂事件「二・二六事件」から、今年86年を迎えます。知られざる東北と二・二六事件との関係について20年以上にわたる取材を続け、昨年著書『二・二六事件 引き裂かれた刻を越えて 青年将校・対馬勝雄と妹たま』を刊行したローカルジャーナリストの寺島英弥さんがその取材を振り返ります。
短い記事で半世紀の思いを伝えられず
【寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】この取材で私は2度、たまさんを訪ねて話を聴き、連載の1本を書いたが、到底半世紀の思いを伝えられるはずはなかった。それから記者の仕事を離れて弘前に通うようになり、たまさんの長い長い語りをあてどなくノートに書き止めた。そして、生活文化部長だった2008年、編集者と縁のあった青森の地域雑誌『津軽学』4号に、「二・二六事件に殉じた兄よ 七十余年の時を越えて」と題する17ページのルポを寄稿した。
わずか1200文字ほどだった連載の記事と同じく、たまさんは手を合わせて喜び、知人たちに知らせてくれたが、それでも後に残ったのは「伝えきれない」思いだった。兄の生涯を語り続ける稀有な生き方と訴えは、一冊の本にならなければならない。もっともっと広く知ってもらうべき歴史なのだ。そのような思いが込み上げ、「きっと本にしましょう」と、たまさんに言った。何の準備も目算ないままに。
90代半ばとなっても、たまさんはかくしゃくとして語り、ご贔屓の老舗「かつ亭」で舌鼓を打ち、弘前城のお堀端の「可否屋 葡瑠満」で一服を楽しんだ。毎朝の新聞を欠かさず、社会への関心は広く、政治への目は厳しく、そこに二・二六事件の時代の体験が重ねられ、兄勝雄への回想につながった。
弘前を訪ねる度、たまさんの言葉はノートを埋めてゆき、貴重な肉声も録らせてもらった。「本にしましょう」という約束は、しかし、日の目を見ることなく、2011年3月11日の東日本大震災が当時編集委員だった私を被災地の現場へ駆り立てた。弘前は遠くなったが、たまさんは福島県浜通りの私の郷里や、取材に明け暮れる身を案じる手紙を毎月のように書いて激励してくれた。
兄のような若者を二度と出したくない
「人生の痛みから身に付いた習慣で、戦争の時代とつながる出来事に、警鐘が胸に鳴った」と、たまさんが書いてよこしたのは2017年のことだ。復興遠い被災地の現実をよそに、当時の安倍晋三首相の内閣が戦争参加に道を開くような集団的自衛権の行使容認や、表裏一体のような特定秘密保護法を相次ぎ決定、成立させた。翌年の終戦の日に合わせて、「この人でなくては」と、たまさんをインタビューし、同紙に連載「二・二六事件青年将校遺族 波多江さん99歳 聞き書き 戦争の時代」を書かせてもらった(以下は引用)。
「二・二六事件から80年近くたって、当時の経験が重なったのが昨年12月、特定秘密保護法が国会を通った時でした。国家が秘密を持つ時、もの言えぬ犠牲者が出ます」「知られると都合の悪い秘密を国家が守ろうとすれば、罪をつくって、知った者を検束する。(中略)恐ろしいのは、都合の悪い秘密や都合の悪い人を国家が自分で決めて、広げてしまうことです」
「二・二六事件の時、遺族は至る所で特高に見張られました。事件の真相は最高機密でしたでしょうから。兄の弔問に来て調べられた人もいます」「わたしは新聞を読み、ニュースを見るのをやめられません。知ることこそ、自分たちを守る武器だからです。今の若者たちは新聞を読まない、と聞きます。どうやって、政治を知るのですか?あなた方が次の時代の当事者なのに、人任せでいいのでしょうか。わたしは、純粋さゆえに死んだ兄のような若者を、二度と出したくないのです」
こんなに毅然とした、たまさんなら100歳を超えても、いつまでも健在であろうと信じた。 (次回へ続く)
【書評】蹶起へ向かう青年の心の深化追う、東北の純な魂の挽歌
【横須賀薫(元宮城教育大学学長)】寺島英弥さんとは知り合って長くなる。『河北新報』 の記者時代に始まり、編集委員、論説委員の間を経て、 今、退職後の大学勤めでもお付き合いが続く。 その寺島さんから著書が届いた。引き付けられるようにして、すぐ読み終わった。二・二六事件が起きたのは1936年、私がこの世に生を受ける前年のこと。直接には何の関連もなかったが、 日本の歴史を知るようになり、特に昭和戦前の歩みや出来事には関心が強くなるにしたがって、自身の生まれた時が二・二六事件と盧溝橋の日中軍事衝突に挟まれていることに強い印象を持ち続けてきた。両事件に関わる著作にもずいぶん目を通したし、後者の地には再度訪れている。
副題に「青年将校・対馬勝雄と妹たま」とあるように、この本は、事件で刑死した東北出身の青年将校対馬勝男の事件への関与とその妹たまの兄への思慕の記録である。 寺島の「まえがき」にこうある。「その朝から、83年、『忘れない』ことを心に決めたように生きた女性がいた。『兄のすべてを記憶する』という使命を自らの人生に課したように、ノートに記し、手紙につづり、2019年6月に104歳で逝くまで、83年間、兄を語り続けた。波多江たまさん。1936(昭和11)年7月12日朝、二・二六事件で死刑判決を受けて銃殺刑となった青森市出身の青年将校、対馬勝男の六歳下の妹だ。
「(中略)河北新報記者時代の私が、東北の歴史を主題にした新聞連載の取材の中で知り、弘前市の自宅に初めて訪ねたのが1999(平成11)年だった」。その後寺島さんはたまさんから『邦刀遺文』と題された私家版の追悼書とその元となった関連の資料を手渡され、さらにたまさんから聞き取りを重ねる。そこから浮かび上がった対馬勝雄の短い生涯とこの国と家族の将来への憂いを、寺島さんが一書にまとめ世に送ったのがこの本になる。
二・二六事件に係る書物は膨大である。事件に至る経緯やその結果なども、今となってはほぼ書き尽くされ たと云ってもよいくらいになっている。しかし、蹶起の中心人物とまでは云えない若い青年将校に関してまでは必ずしも十分に伝えられては来なかっただろう。その意味では事件に関わり、その短い生涯を昭和維新に捧げた東北の青年の事績はこの書によって明らかにされ、語り伝えられることになった。
対馬勝雄は、1908(明治 41)年 青森県南津軽郡田舎館村垂柳の農家の次男として生まれる。家は貧しい農家 だったが、しっかりした家庭で貧しいのは地域全体だった。勉強のよくできる子どもで家族だけでなく地域において将来が嘱望される。それは県師範学校附属尋常小学校に学んでいることが示している。そこから仙台陸軍幼年学校に格して、家を離れる。この進学は家族が望んだものではなく、本人の独断によるものだったという。家の貧しさを配慮する勝雄の心根がわかる。
このコースに入ってしまえば後はエリート軍人の道になる。陸軍士官学校を了え、弘前の第三十一連隊に配属される。歩兵曹長、見習士官を経て昭和4年に歩兵少尉に任官する。昭和6年、満州事変にあたり満州に出動する。そこで軍功を挙げ、金鵄勲章を授与されるが、 勝雄には戦死させた部下の兵士への心が強く残る。そういう軍人だった。それは冷害凶作に苦しむ東北の農民、小作争議に敗れ苦境に沈む農民への思い入れでもあった。同時にそれは密かに進行する昭和維新の運動からの呼びかけに心を寄せる道程ともなる。
昭和9年には中尉に昇任し、豊橋教導学校教官に任じられ、下士官の教育訓練に当たることになり、その地で家庭も持つ。そして蹶起に加わる。
寺島は、たまさんから手渡された勝雄の日記や手紙、身近にいた人たちの証言で、勝雄の蹶起へ向かう心の深化を追う。読み終えて思うのは、何という昭和日本の悲劇だろうか、ということに尽きる。そしてこの本が純な魂への挽歌となったことに一筋の安堵を覚える。
評者
よこすか・かおる
神奈川県出身、元宮城教育大学学長
『二・二六事件 引き裂かれた刻を越えて 青年将校・対馬勝雄と妹たま』
著 者:寺島英弥
発行所:ヘウレーカ
発行日:2021年10月12日
定 価:本体2,800円+税
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