東北にとっての「二・二六事件」を掘る 津軽の兄妹の物語を取材して①

東京で陸軍青年将校が起こしたクーデター未遂事件「二・二六事件」から、今年86年を迎えます。知られざる東北と二・二六事件との関係について20年以上にわたる取材を続け、昨年著書『二・二六事件 引き裂かれた刻を越えて 青年将校・対馬勝雄と妹たま』を刊行したローカルジャーナリストの寺島英弥さんがその取材を振り返ります。

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】歴史に刺さったとげのように、事件は今なお関心を刺激する。暗黒裁判、銃殺刑によって真相が闇に葬られ、戦後もファシズムの先兵の血なまぐさい所業とタブー視された。86年前に起きた二・二六事件。有名な出来事ながら、誰が、なぜ、それを起こしたのかを知る人は少なかろう。私もそうだった。「兄の真実を伝えたい」と訴える女性と出会うまでは。

処刑された蹶起(けっき)将校の一人、津軽出身の対馬勝雄を初めて知り、以後二十余年、その妹の記憶に導かれて、昨年10月、ノンフィクション『二・二六事件 引き裂かれた刻を越えて 青年将校・対馬勝雄と妹たま』(ヘウレーカ)を上梓した。津軽の貧しい家の兄妹の生涯を追いながら、東北の一青年がなぜ蹶起に参加したか、東北にとって二・二六事件とは?―を考えた。いかに取材、執筆したかーの経緯を4回に分けてお伝えし、物語の全体像などは、親しい読書人が寄せてくださった評文をお読みいただきたい。

記者時代の連載取材で出会う

1936年2月26日、帝都東京は大雪の朝を迎えた。まだ真っ暗な午前5時ごろ、永田町の首相官邸を陸軍歩兵第一連隊の兵約300名が襲撃。ほぼ同時に、総勢1483人の兵が政府高官邸などを襲い、高橋是清蔵相、斎藤実内相、渡辺錠太郎陸軍教育総監らを殺害した。事件を計画、指揮したのは「昭和維新」を合言葉に、財閥と癒着した政党政治打倒、軍主導の国家改造を目指した急進派青年将校たちだった。

天皇親政を仰ごうとしながら、昭和天皇の激怒を招き、わずか4日間で鎮圧部隊に降伏。秘密軍事裁判の後、民間人を含む17名に死刑判決が下され、1週間後の7月17日朝、青年将校ら17人の銃殺刑が行われた(翌月さらに2人に死刑判決)。陸軍は反主流派一掃、事件に関する言論封殺とともに、事実上軍独裁体制への道をひた走る。

二・二六事件の概要である。「暗黒」の戦前史の始まりにある事件。そんな漠然たる認識しかなかった私は、河北新報記者時代の1999年、「時よ語れ 東北の20世紀」という東北の百年史の連載取材で、弘前市の波多江たまさんという当時84歳の女性を訪ねた。陸軍中尉だった対馬勝雄の名も、彼女が1991年、『邦刀遺文』という兄の記録・遺文集を家族と自費出版した、という小さな情報から知った。二・二六事件に参加し、銃殺刑になった現役将校でただ一人の東北人だ(民間人では会津生まれの元陸軍士官学校生、渋川善助も刑死した)。

国賊、軍国主義の先兵と言われ

たまさんを取材に訪ねた筆者=2014年5月6日、弘前市の波多江さん宅

「あの事件の後、対馬の妹であることを隠して生きてきた」。波多江たまさん(84)は語り始めた。「戦前は、天皇に弓を引いた『国賊』、敗戦後は『軍国主義の先兵』と言われ続けて」
 二・二六事件を扱った本だけは出版の度、ひそかに読んだ。が、さまざまな“真相”の誤りを見つけては「兄の真実を伝えたい」との思いを募らせたという。「『私』なく、貧しい人々を思う、優しい兄でした」

1999年8月5日の河北新報連載『時よ語れ』6回「二・二六に散った兄の真実」より

最初の取材に、たまさんはこう語った。事件後、「国賊」扱いされた将校の遺族は監視され、名前を刻んだ墓石の建立も禁じられ、ひっそりと暮らした。敗戦後、世間から事件の記憶が薄れてからも、家族の間でさえ話は避けられたという。言論の自由の時代になり、生き延びた事件の同志たちの手記や、内幕暴露の本が相次ぎ世に出されたが、遺族が受けた心の傷はあまりに深かった。たまさんだけは素顔の勝雄を信じ、「兄の記憶を全て忘れず、記録しよう」と決意し、遺文集の自費出版を思い立つ。上記の『邦刀遺文』で、自ら事件の「語り部」となる生き方を選ぶ。(次回へ続く)

【書評】「忘れない」と祈る心と「伝えたい」と願う思い。その二つが織りなす稀有な物語は一冊の本から始まる

小林直之東北大学出版会事務局長、編集者、文芸評論家)】『邦刀遺文』(1991年刊)。「邦刀」とは、津軽出身の青年将校で二・二六事件の罪(叛乱罪)を受け処刑された対馬勝雄の号である。自身の日記や手紙、妹の波多江たまさんら遺族の追想を上下巻に編み、500部だけ作られた。新聞連載の取材の中でこの本に出会った本書の著者・寺島英弥は、事件から半世紀以上も過ぎてからの刊行に思いを致し、たまさんが住む弘前に向かう。以来20年、元陸軍中尉の妹と、地に根差した新聞記者による、刻に埋もれた記憶と言葉を紡ぎ直す物語が続いた。

1936年2月26日未明、陸軍青年将校の一部が「蹶起部隊」を組み、約1400名を率いて国会や警視庁を占拠した。部隊は首相官邸などを襲い、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監らを殺害。教科書にある二・二六事件は「国家改造・軍部内閣樹立を目指すクーデタ」と説明されている。

しかし、これは後の世の目による説明に過ぎない。二・二六事件はいまなお謎が多く、全貌を明らかにするのが困難な出来事とされる。まして、思想的指導者でも蹶起の首謀者でもない一人の将校のこと、その来し方や秘された胸の内が後世に伝わるすべは限られる。あの時、自らが担った計画が頓挫し、急ぎ夜汽車で東京に向かい、急遽、機関銃隊約300名に合流して首相官邸に向かった対馬勝雄のことも、我々は知ることもなく今を生きている。

一方で、「忘れない」ことを心に決めて生きる人もいる。たまさんは兄のすべてを記憶しようと、勝雄の写真や手紙とともに自筆のメモを大学ノート数冊分に記した。先の『邦刀遺文』の基となるものだ。著者はこれを『記憶のノート』と呼び、本書の記述で事あるごとに参照しながら、たまさんの記憶を通して勝雄の生涯を浮かび上がらせていく。

対馬勝雄は1908年11月15日に青森県南津軽郡田舎館村に生まれた。父親の嘉七(かしち)は日露戦争に出征した元軍曹で、帰郷して所帯を持ち家業を始めるも青森大火(1910年)で文無しになる。勝雄は貧しい中で育ったが成績はずば抜けて優れ、名門の青森中学校(現在の青森県立青森高等学校)へと進学する。

その後、勝雄は家族に黙って仙台の陸軍幼年学校に受験願書を出す。陸軍の将校候補者を養成するための全寮制の教育機関だ。まだ13歳の勝雄の胸には、苦しい家計と自分の学費に悩み、親に負担をかけずに出世する道を探す気持ちがあった。

幼年学校に合格し一躍「町の星」となった勝雄は、多くの人からの支えを受けて御国の軍人の道を歩み始める。帰省すれば子どもたちを集めて「少年団」を結成し、彼らの憧れの存在となる天真爛漫な人気者だった。

石巻での遊泳、磐梯山登山、松島遊覧…。学校の環境と教官たちの厳しくも温かな訓育は、気高い心を持つ少年たちにとって理想世界に近かった。そんな時、遠くワシントンで海軍軍縮条約が締結される(1922年)。世界的な軍縮傾向を受け、日本でも海軍に続き陸軍も整理の対象となる。その結果、16歳の勝雄が学ぶ仙台陸軍幼年学校の廃校が決まる。

ロシア革命(1917年)によってロシア帝国が消え、北方の脅威は薄れた。世界は平和協調へ向かい、国内は財政緊縮にかじを切る。社会情勢の変化は、軍人の地位の著しい低下をもたらした。退役が増え、志願者が減り、軍隊だけでなく幼年学校までが無用とされる時代の空気。「義務は山より重く、死は羽毛より軽いと覚悟せよ」という皇国軍人の志は、世の中にとってさほどのものなのか…。無念さと屈辱感が、次第に勝雄の目を社会や政治へと向けさせていく。

『二・二六事件 引き裂かれた刻を越えて 青年将校・対馬勝雄と妹たま』
『二・二六事件 引き裂かれた刻を越えて 青年将校・対馬勝雄と妹たま』

著者の取材は、たまさんの証言と『記憶のノート』にとどまらない。二・二六事件で刑死した青年将校らの遺族会「仏心会」を通し、事件にかかわった将校の一人である末松太平(すえまつたへい)が記した「津軽義民伝」を知る。末松が同志・勝雄を偲んで書いたというそれに、興味深い一文がある。

〈二・二六事件は軍服を着た百姓一揆であった。対馬中尉に於いては、郷里津軽農民の構造的貧困を抜本的に救わんがための蹶起であった。正に津軽義民伝であった。部分である農民の救済は全体の国家の革新無くしては不可能である〉

この一文を境に、昭和の怪事件は東北の地と根深いつながりを露わにする。「二・二六事件の原点」との証言もある車力村(青森県西津軽郡)で起きた小作争議。その波は田舎館村にも広がり、勝雄は望郷の思いと不正への怒りを深める。昭和恐慌(1930年)は農産品価格の下落を引き起こし、東北の農民を疲弊させた。翌年からは東北大凶作が追い討ちをかける(1934年まで)。東北では、生まれた時からずっと貧困にあえぐ故郷の人々が耐え忍んでいる。中央では、財閥と癒着し利権あさりの汚職醜聞を繰り返す政治家たちが跋扈する。「津軽義民」の心は、将来を嘱望され人望も厚かった若き将校を、後戻りのできない道へと向かわせていく…。

本書は、兄と妹の物語である。妹は兄を慕い「『私』なく、貧しい人々を思う、優しい兄でした」と語った。そんな兄は妹を愛し、家族と故郷を忘れなかった。一体、何がこのきょうだいを引き裂きいたのだろうか。慕った兄が「戦前は、天皇に弓を引いた『国賊』、敗戦後は『軍国主義の先兵』」と言われ、「対馬の妹であることを隠して生きてきた」というたまさん。兄の真実を伝えたいという切実な思いが『邦刀遺文』に結実した。

そしてまた本書は、忘れえぬ歴史の証言者と、それを伝えることに心血を注いだ新聞記者との物語でもある。20年の交流で著者がたまさんから受け取った手紙は実に70通以上。終盤、その手紙から引いた文章をそのまま記すページに、語り部の思いの一端でも受け継ごうと決意と、それを読者にまっすぐに伝えようとする著者の意志を感じる。

二つの物語が、時に補い合い、重なり合うことで、単なる証言録や評伝とは異なる静謐かつ温かみのあるノンフィクションの傑作へと導いた。読後、心静かに家族や故郷を思わずにはいられなくなる。

対馬勝雄が『邦刀遺文』を手にしなかったように、波多江たまさんも本書を手にすることなく2019年6月に104歳で旅立った。天国で二人は、本書を一緒に読んでいるだろうか。引き裂かれた刻を埋めるかのように、きょうだいは本書の中で共に永く生き続ける。

『邦刀遺文』が本書を生んだように、また本書も、誰かの何かを忘れず伝えようとする思いを後押しし、新たな本を生むかもしれない。たまさんから著者に託されたバトンは、次は読者に手渡された。

こばやし・なおゆき
東北大学出版会事務局長、編集者、文芸評論家

        ◇
『二・二六事件 引き裂かれた刻を越えて 青年将校・対馬勝雄と妹たま』
著 者:寺島英弥
発行所:ヘウレーカ 
発行日:2021年10月12日
定 価:本体2,800円+税

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