仙台在住の詩人・武田こうじさんによる写真と詩の新連載「もうちょっと後で光って」。TOHOKU360にて2020年5月より、週末に掲載しています。
先日、母から「部屋を片付けていたら、見つけたんだけど」と言われて、新聞の切り抜きを見せられた。それは河北新報の『ティータイム』という投稿欄で、祖母が送った文章が載っていた。日付は1997年5月7日。
<白いカーネーション
明治生まれの母が亡くなってから、20年が過ぎました。わたしも母と同じ年になり、当時は当分着られないからと、押し入れに押し込んだままだった着物を取り出してみました。
日差しもやわらかく春の一日を整理にと、軽い気持ちだったのですが、たぶん着物に染み込んでいたのでしょう、母の残り香がして、思わず涙がこぼれてしまいました。
明日は病院に行く日だからと、わたしに髪を洗ってもらい、この着物にしようか、それともこっちの方がいいかしら などと言う母に、どっちでもいいじゃない、とつれない返事をしたわたし。
まだ元気でいたころ、野草園にお花を見に行ったときに着た着物のそでの中に、ひ孫と一緒にうれしそうに写っている写真が、大切に紙に包んで入っていました。
一枚一枚に母の残り香とともに、女の着物にはそれなりの歴史があるのだと、思い出された一日でした。赤いカーネーションが楽しみなわたしですけど、わたしからも白いカーネーションを仏壇に供えましょう。
武田美代 着物講師>
母がこの記事をぼくに渡したのは、ここに詩(ポエジー)があるから、とのこと。「おばあちゃんにはあったけど、わたしにはないなぁ」。「そんなことないよ」とぼくは言って、この記事を受け取った。たしかに、この文章には詩(ポエジー)がある。
だけど、これは詩ではない。これを詩にしなくてはいけない。いつも、詩の教室やワークショップで、ぼくがみんなに教えていることだ。
なので、ぼくはこの記事を詩にしてみた。
10月
ぼくのなかで秋がはじまる
ねぇ なにか読んでと
なつかしい声がする
ふと いま 書いている一行が浮かんで
声にしてみる
ありがとう
だけど いまのは最後まで書けていないよね?
完成させたいのは
ぼくの詩なのか
それとも ぼくの歩いてきた時間なのか
秋のはじまりに
月がいなくなる
だけど
その一行をぼくは
月の灯りで読んだ
どこにいるの?
月は答えずに
また思い出を空にする
あっ、ちなみに、文章に出てくる、ひ孫とは、ぼくのことです。
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