【写真と詩の連載】もうちょっと後で光って #5

仙台在住の詩人・武田こうじさんによる写真と詩の新連載「もうちょっと後で光って」。TOHOKU360にて2020年5月より、週末に掲載しています。

<ところで、ぼくは誰なんだろう。とてもこだわってきたけれど、そもそも自分とはなんだろう。そして、この手紙を受け取ったきみは誰で、いま、どこにいるのだろう。というか、この手紙を受け取り、返事を書いているであろうきみは、ぼくの知っている、「あの」きみなのだろうか。こんなことを言うと、きみは言うだろう。「あなたはほんとうのわたしを知らない」と。で、ぼくはこう返すだろう「ほんとうってなに?」と。>

いま思えば、かなりばかばかしいことだけど、若い頃はこんな手紙を書いては、友人に送りつけ、これまた、いまとなっては信じられないことだけど、その友人もまた似たような、あるいはそれ以上のテンションの返事を書いてくれていた。その時は真面目に考えていたし、そんなやりとりをすることが楽しく、意味があるような気がしていた。いつだって、過去を振り返ると、「ぎゃー」って思うことは多いけど、それでも、やっぱり自分というのはあまり変わっていないんだなと思うことがある。だけど、さすがに、いま、そんな手紙を書いたりはしない(書けない)。

そして、そうしたこと(その手紙の内容のようなこと)から、次に考えるのは「ひとりでいること」について。どうしたって、誰かと関わることは面倒だし、ストレスだし、ってことはきっとぼくに関わった相手もまた、そう思っているにちがいない、と思って、「もう、誰にも会わない」「会いたくない」「ひとりでやっていく」となる。そして、それが「ほんとう」の自分だと思ってしまう。

だけど、それも、どうしたって無理なわけで・・・。いろいろな出会いから・・・とくに実際にそうなってしまった子たちに出会い、話をしていくと、「自分はもう、そうはなれないな」と子どもから大人になることを良くも悪くも理解することになる。そして、それは以前思っていたよりも悪いことではないとも思う。いつの間にか、生きていることがどうでもよくなっている。自分にも周りにも期待しなくなる。矛盾しているようだけれど、そうなって初めて、人と出会うことや自分ができること、やさしさとはなにかを考えることができるような気がする。

毎日、ミルク(一緒に暮らしている犬)の散歩をしている。いろいろコースはあって、時間もその都度ちがうけど、大体は午前中、そして夕方、近所を歩く。自慢に聴こえてしまうと思うけど、ミルクはとてもかわいい。どう考えてもかわいい。信じられないくらいかわいい。なので、散歩中はいろんな人に話しかけられる。そこには挨拶からの会話がある。散歩に出る時は気軽に、着の身着のまま出たいのだけれど(実際最初はそうだった)、いろんな人から声をかけられるので、なんとなくそういうわけにもいかず、一応、寝癖くらいは直し、パジャマくらいは着替えて、外に出る(当たり前か)。

まずはマンションのエレベーターの中。「おはようございます」「ミルクちゃん、元気?」。そこから「今日は暑くなりそうですね」が「ちょっと涼しくなってきましたね」になり、やがて「だいぶ冷えますね」「寒いねぇ」に。そして、「ようやく暖かくなってきましたね」になっていく。マンションを出て、ちょっと歩いていると、同じマンションの人たちが出かける(出勤・通学)タイミングと重なっていく。その時間は、急いでいて、なにかを纏っているような感じが伝わってくるので、立ち止まったり、何往復も言葉を交わしたりはできない。やはり、その日の天気、気温の話くらい。だけど、思いがけない言葉を聞くこともある。「さっき、準備していたら、洗面所に家族がいきなり入ってきて、朝から微妙な感じになったんですよー」一応、言っておくと、この前の会話は「おはようございます」だけである。その後、いきなりこれなのだ。きっと、どうにもそれが嫌だったのだろう。もしかしたら、表情にそんな微妙な感じが出ていると思って、言ってきたのかもしれない。「そうだったんですね。まずは気をつけて、いってらっしゃい」これくらいしか返すことができない。「はーい。ミルクちゃん、行ってくるね」で終わる。他の日、別な人とは「いやぁ、うちの会社、いろいろ細かく、言ってくる人いるんですよねー」。これも一応、言っておくと、この前の会話は「おはようございます」である。きっと、これも疲れている、行きたくない、というのがあったのだろう。「そうなんすねー。今週はどこかのタイミングでサボってもいいかもしれないですね」と、かなり無責任なことを言ってしまう。ちょっとの間ができてから、「たしかに」と言って、微妙な笑顔を残して、急ぎ足で行ってしまう。

そこからは、同じく犬の散歩をしている人たちと会う。コースやタイミングによっては、ちょっとの距離を一緒に歩いたりもする。これも天気ネタから始まり、場合によっては時事ネタが入ってくる。最近だと「マスク、届きました?」とか。一人、二人と増えていくと、それぞれのワンちゃん情報が増えていく。「そういえば、この前、病院行くって言っていたけど、どうでした?」「診てもらったら、急性の胃炎だって言われて、ちょっとの間薬飲んでいたんです」「そうだったんですね、大変でしたね。がんばったね」もちろん、最後の「がんばったね」はそのワンちゃんへの言葉。「その病院ってどう?」これはまた別の人の質問。「良かったですよ。診察も丁寧だし・・・だけど、やっぱりイイところは混んでますね。2時間待ちでした」「えー」。

そこから、少し緩やかに時間が流れていく。雲も流れて、行き行き交う車の感じも変わっていくと、また違う顔ぶれになる。郵便配達の人、宅配業の人、クリーニング屋さんの人、小さなカフェのスタッフ、美容室のお母さんなどなど・・・。同じように天気ネタ、時事ネタ、最近近所で起きた、だけど、ぼくには全然わかっていなかったこと、など。また、それぞれの家族の状況や仕事の内容などになることもある。それは時に、「そんなことがあったんだ」「というか、そんなこと話してくれるんだ」ってことでもある。ミルクのことや、カラスのこと、ゴミ出しについて、雨のこと、風のこと、自分の生まれ育った街のことなどにも話が展開することがある。それと・・・白熱するのが野球のこと。でも、ぼく、タイガースなんだよね。イーグルスではないんだよなぁ、と変な罪悪感を持ちつつ、話をしている。

で、ここまで書いてきた登場人物のみんなの名前をぼくは知らない。みんなもぼくの名前を知らない。あっ、宅配の人は配達しているから知っているか。でも、それも含めて、わかっていないレベルとも言っていいだろう。当たり前だけど、会って話す以外は連絡を取ることはない。もし「ほんとうの」という言葉が「ほんとう」なら、きっと、みんなの「ほんとう」をぼくは知らないということになるだろう。だけど、たしかに、知っているのだ。名前も、なにも、わからなくても、みんなを知っているのだ。

ぼくは基本的にどこかに出社したりすることがないので、打ち合わせがない時などは夕方くらいまで、まともに誰かと話したりしない時がある。これって、なんとも「ひとり」な感じだ。(電話・メールもしない時がある)だからなのか、散歩中にこうしていろんな人に会って挨拶や、短い会話をしていくことが自分にとって、大切なことだということにいつからか気づいてきた。そりゃ、「今日は疲れている。誰にも会いたくないな」と思う日もある。だけど、ミルクとは必ず出かけなくていけない。そして、そういう日こそ・・・もちろん、コースも時間もズラしているのに・・・みんなに会ってしまう。というか、そういう日ってなぜか、みんなもズラしているのだ。「会ってしまった」と内心思いながら、「まぁ、そんなもんか」と思って、挨拶をする。きっと、向こうもそうなのだろう。どことなくぎこちない会話になったりするけれど、それがいいのだ。だって、ぼくたちはみんな、なにも知らない、わかっていないのに、会ってしまうのだから。

春から少なからず、みんなの暮らしはどこか変わったのだと思う。みんな、マスクをしている。仕事の仕方も変り、年齢や体調によっては出かける頻度も変わった。会う機会が減ってしまった。だからと言って、どうしているかはわからない。だって、名前も連絡先も知らないのだから。世の中はコロナ禍以前から、効率化が大事とされ、なにが無駄で、なにが削減できるかの話が多く、それを提案し、実行することが優れているということになっていた。そして、この状況になってしまって、テレワークやオンラライン授業などは必然的なものとして、デメリットを考えることもなく、メリットだけをカウントして進められてきた。こういう書き方はどうしても否定的なニュアンスになってしまうけれど、最初の方で書いたように、ぼくもそもそもは「ひとりでいい」「ひとりがいい」、できるだけ人に関わらず、ストレスやトラブルを回避して・・・と思っていた。だけど、それって・・・そう言いながら・・・逆の意味もあったわけで・・・つまり、それは絶対にできない・・・人は必ず人と関わり、面倒を起こしてしまうものだ、ということを考えていることでもあった。

こういう非常時だから、ではない。普段からそうだ。人は勝手で、自分に都合よく考える。そうなると、どうしてもカウントされないものがある。むしろ、ぼくがここまで書いてきたような、やりとりは無駄なこと、ということになるだろう。でも、ほんとうにそうだろうか。それは犬の散歩の時だけではない。学校でも、仕事場でも、ごはんを食べに行ったお店でも、コーヒーやお酒を飲みに行く場でもあったことだ。なにげない会話、雑談、その時の表情、声のニュアンス、そうした諸々のことからの気づき。そんな日々の中にある余白に大切なものがあるのではないだろうか。もっといえば、だからこそサボることも面白いし、ひとりになりたいって思うこともできるのだ。ぼくはそんなことを思う。たしかに、健康は誰もが気にする大切な問題だ。ぼくの周りにも病気の人はたくさんいる。だけど、そのことを恐怖の数字にして、社会を遮断する理由にしてしまったら、その余白は悪いものになってしまうのではないだろうか。どこでも「命と経済の話」になってしまっているけれど、それとは違う、「そもそも人が人に関わるとはどういうことなのか」という話を聞きたいし、したい。

ミルクたちはどう思っているのだろう。きっと、ぼくとちがって、なにもかもわかっているのだろう。だから、なにも言わないのだろう。

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