【寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】バッタリー村、ご存じだろうか。東北の農山村の過疎が進んだ1985(昭和60)年、岩手県山形村(現久慈市)の荷軽部(にかるべ)地区で、小川の流れを利用する杵つき場「バッタリー」をシンボルに、自然と調和した山村の生き方を伝える場として、多くの都会人や大学生を集わせてきた。自前で施設を造り、語り部を務めた木藤古(きとうご)徳一郎さん(93)が病気と高齢で現場に立てなくなり、親しい仲間との相談で、活動40周年を迎える来年7月に「閉村」することになった。惜しむ声が広がりそうだが、地元伝統の生業である炭焼きを長男の修一さん(67)が受け継いでおり、バッタリー村の精神はこれからも生き続ける。
全国の大学生、来訪者と交流
バッタン…バッタン…バッタン…バッタン…。晩秋の山里にバッタが響いていた。だれもが忘れ去っていた音だ。「バッタはもう五基が復活して、全部暮らしに生きている。先月、おれが収穫したソバを製粉したが、半日も放っておけば出来上がってしまうんだから、こんな頼もしいヤツはない」。(中略)長さ4メートルほどのバッタ本体は、クリの丸太を、水受け部分を含めて一本彫りし、杵を取り付ける。五基のバッタはどれも、木藤古(徳一郎)さんの父徳太郎さんが指揮を執り、古老が総出で一週間かけて完成させた
筆者が1995年、東北各地に取材した『山村からのメッセージ』(河北新報連載)のうち、まだ64歳だった徳一郎さんを山形村に訪ねて取材した回『バッタの響く村』の一節。山からの沢水をため、小屋の中の唐臼を勢いよく突くバッタは、自然と共に暮らしてきた集落の伝統復活の象徴だった。ヒエ、アワ、キビ、大麦など「雑穀農場」があり、徳一郎さんらは自前の創作工房で豆腐やカンジキを作り、語らいの場の山村文化研究所、炭焼き体験窯も設け、岩手大、東京農大などの学生、盛岡、仙台、東京などからの来訪者グループなど毎年千人以上と交流してきた。
山村の歴史文化の語り部
JR二戸駅から車で約30分、北上山地の懐にある荷軽部地区は晩秋の紅葉の中にあった。木藤古修一が語った徳一郎さんの近況は、緑内障のため視力が弱り、脳梗塞もあり入院中だった。バッタリー村での交流活動もお休みになり、シンボルのバッタがある小屋も昨冬の雪で壊れた状態だという。「バッタリー生活体験工房」の看板が掲げられた木造の施設で、筆者も何度か徳一郎さんから山村の歴史文化の取材をした囲炉裏を、修一さんと囲んだ。灰の上に黒光りする木炭が積まれ、壁には、来訪した親子らとの交流や開村20周年、30周年イベントの写真、たくさんの寄せ書き、つる細工などの手作り民具が飾られ、豆腐などを作った大きな調理台もある。
筆者は2019年にも徳一郎さんを訪ね、「ほど餅」(小麦粉の餅にみそをつけ、葉っぱにくるんで囲炉裏の灰で焼いた)をごちそうになったり、乾燥したカブの葉(ウサギ肉と青菜汁にした)、寒干ししたジャガイモ(バッタで粉にし餅を作った)など、山の厳しい冬を生き延びる保存食、昭和の大凶作(1930年代前半)も耐えしのいだ救荒食を教えられたりした。「シダミ(ドングリ)を集めてバッタで皮をむき、灰汁抜きし、砂糖や黄な粉をまぶして食べさせられたよ。山の恵みだった」、「貧しさとは思わなかった。自然と共生し、身の回りにないものは手作りした先人たちの知恵は、今の人たちに伝承すべきもの。誇りに思っているんだ」。
捨てたものが実は価値ある文化
徳一郎さんの青年時代は高度経済成長時代。岩手県北地方でも先祖伝来の雑穀より美味なコメづくりが広まり、都会生活が若者たちを吸い寄せ、地域の過疎が進んだ。自身も荷軽部を離れて久慈市の農協でサラリーマン生活をし、父の病気などを機に帰郷した。農協時代に牛肉の産直を手掛けた縁で、東京の「大地を守る会」(生産者とつながる有機、自然食品販売の先駆的団体)との交流会が荷軽部でも催された際、「ムラの暮らしをありのままに見てもらおう」と何気なく企画したのが、廃れていたバッタの復元だったという。その作業は父たち年配者に再び出番をつくり、徳一郎さんの世代が「恥ずかしい」と思っていた山村の暮らしの知恵が、都会からの来訪者たちを感嘆させた。「捨てたものが、実は価値ある文化だった」との気づきが、そのメッセージを発信するバッタリー村づくりに発展したという。
修一さんは最近、体の不自由になった徳一郎さん、地元岩手の長年の応援者とバッタリー村の今後を語り合ったという。「そろそろ閉所を考えたいと父は言い、40周年の来年が良い折だろうという話になった。祖父(徳太郎さん)は95歳まで生きたので、車いすは必要でしょうが、それまで元気でいなくては、と。言葉はしっかりしているので、本当はまだまだ頑張れた、と本人は悔しいでしょうけれど」
修一さんも古里を出て、盛岡の地場産牛肉を扱う会社でサラリーマン生活を送った後、荷軽部に戻り11年になる。「父には山村文化を残し伝える志があったが、俺は深く考えたことはない。ここで暮らすので手いっぱい」と話す。だが、修一さんが第二の人生の仕事に選んだのは炭焼き。バッタリー村の精神を立派に受け継ぐ。
自前の森のナラを焼く「岩手大量窯」
バッタリー村の裏手は深い山だ。車で登ると、森に開けた牧草地と木造の施設が数棟ある。もくもくと煙も上がっている。「ここが私の仕事場」と修一さんが案内してくれたのは、横幅約4・8メートル、奥行き約3・8メートルという大きな窯が二つ並んだ炭焼き場。会員である岩手県木炭協会(盛岡市)が開発した「岩手大量窯」だ。文字通り大量、均一に高品質の炭が焼け、熱に強い珪藻土を使うなど優れた構造で、雨風にも半永久的に崩れないという。「地元の炭焼きの人たち、協会の関係者たちが材料運び、窯造りの作業に通ってくれて、完成からほぼ10年です」。
炭にするのはナラの原木。炭焼き場から10分ほど軽トラックで山に分け入り、細い坂道を上った山中に、材料を採る標高約600メートルの森がある。市有林が払い下げられた機会に、地元でシイタケ栽培をする住民たちと入札に参加し、市の後継者育成補助金、木炭協会の支援金も得て1ヘクタールを確保できた。「自分だけの材料を採る森を持ちなさい」と、炭焼きを一から学んだ地元の最高峰の炭焼き名人、韮沢彦造さん(87)=岩手県選定の初代チャコールマイスター=から教えられた。
人と自然が関わる森では樹齢30~40年のフレッシュな木が多く、若木が続々と育っている。久慈市内の今では数少ない木こりにひと冬分を伐ってもらい、1本1本を長さ90センチの丸太に切って、さらに4つに割り、程よく熟成乾燥させ、円形の窯の中に隙間なく、びっしりと立てる。「冷えた窯を4日ほど暖めてから着火する。火が勢いよく奥へと飛んで、どんどん温度が上がり、480度で木は炭になる。火を止めるまで12日間。窯にお願いするほかないが、今は何日目には何度と測ったように自然に推移する。初めは火が消えたり、灰になったり、四苦八苦で泣けたよ」
「木炭ルネサンス」を時代が追いかけ
全国一の木炭生産県、岩手の中でも「日本一の炭焼き村」と言われた旧山形村では、バッタリー村ができた当時、荷軽部地区だけで7基の炭焼き小屋があった。昔は山で小屋を移動しながら炭を焼き、修一さんの祖父、徳太郎さんもその一人だった。小さな田畑のほか、山林を拓いて牧草地を作り、短角牛を育てた。修一さんは就職する前の3年間、徳太郎さん、祖母ハツさんと暮らし、牛飼いを手伝った。当時の牛小屋は、父の徳一郎さんが子ども向けの体験工房にし、今は修一さんが炭焼きの倉庫にしている。焼き上がると、10トンの木材が約1トンの炭(約160袋分)になり、粉炭(土壌改良剤)、木酢液(農業・園芸用)などの製品がここに並ぶ。
「父もバッタリー村の活動の傍ら、炭焼きをした。俺も祖父と暮らした経験があったから、この場所に帰って自然に炭焼きを始めた。これも運命なのかな」と修一さん。戦後のエネルギー革命の後、国内の炭の需要も生産も落ち、流通する炭も安い中国産が多くを占めた。だが、アウトドアとキャンプのブーム、世界的な貿易のコンテナ不足や輸送費高騰が状況を一変させ、国産の炭が引っ張りだこになった。
「5年前には底値だったが、今は良い値段で売れる。炭焼きをする人は県内で100人を割り、荷軽部でも私を入れて2人になったが、岩手産の木炭が全国初の『GI』マーク(地域の特産品として認証)を取ってブランド(『岩手切炭』として販売)になり、県木炭協会も生産者を応援してくれる。師匠(韮沢さん)から『楽しんでやるのさ』と言われたが、やっと生活が追いついてきた」。岩手の木炭ルネサンスの今、バッタリー村の「新しさ」を時代が追いかけてきた。
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