明治、昭和三陸津波の壊滅から集落移転、13年前は犠牲を出さず。大船渡市の98歳の語り部、先人の「命の伝言」を次代へ 

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】2011年3月11日の東日本大震災で、犠牲者を1人も出さなかった岩手県大船渡市綾里の白浜地区。明治、昭和の三陸津波で多くの命を奪われ、生き延びた住民たちが集落の高台移転を決断。「復興地」と名付けた場所に、13年前の津波は届かなかった。「地震があれば必ず津波が来る、すぐ逃げろ」という祖父、父の警句を、自らも体験者の98歳の元区長は、チリ地震津波、13年前の震災の際に訴え、小学生たちにも語ってきた。コロナ禍で機会が減り、先人の「命の伝言」を次代につなげたいと願う。 

13年前の津波から住民を守った「復興地」 

13年前の3月11日午後2時46分、岩手県三陸沿岸を強く長い揺れの地震が襲った(震度6弱を観測)。リアス式海岸の美しい入り江に砂浜と漁港がある、大船渡市綾里の白浜地区。自宅の居室にいた熊谷正吾さん=当時85歳=は、「津波が来る」と外へ飛び出し、庭の端から眼下の海をにらんだ。海抜30㍍以上ある熊谷家の広い駐車場は、地元の避難場所になっており、住民が続々と上ってきた。

「おじいちゃん、津波は来るの?」と口々に問われた正吾さんは、「必ず来る。だが、ここまでは来ないから見ていろよ」と確信を込めた。1960年のチリ地震津波の際も、自宅に設けた漁協の拡声器から「津波だ、避難しろ」と集落中に声を響かせて、住民を助けた(注・チリ地震津波の大船渡市での遡上高は6㍍。死亡、行方不明は53人で、最大の被災地になった)。

白浜の防潮堤に立つ熊谷正吾さん。13年前の津波は、正面奥に見えるがけで止まり、集落に届かなかった=2024年2月20日、大船渡市綾里

<あの日を振り返ってもらった今年1月の取材に、正吾さんは「昭和8(1933)年の地震によく似ていると思った。あの時も、家が転ぶような縦揺れだった。『そばで起きる地震だから、気を付けねばならん』と祖父が言っていたんだ」と語った>

「津波が来ないね」と住民らが話し始めると、正吾さんは「もう一回、地震があり、発破のような音がするから」と注意を促した。やがてまた揺れを感じ、海から「ドーン」という音が聞こえたという。すると、「海から青く高い波が真っすぐ、ゆっくり押し寄せてきた。『馬(ま)の背』という岩にぶつかった波の勢いに驚いた。また次の津波が来て浜の納屋をさらった。だが、海に面したがけに立つ旅館にも津波は届かず、誰も、どの家も被災しなかったんだ」 

「今となれば当たり前(の出来事)になったが、白浜の先人が『ふこうち』を造ったおかげだよ」と正吾さん。この取材で初めて聴いた「ふこうち」とは、震災後に防潮堤が築かれた浜から、急な斜面を巻いて上った高台の住宅地を地元の人が呼ぶ。古い家々が連なり、そこから一段高いところに正吾さんの自宅がある。もともと、浜に迫った里山だったのだろう。「三陸は土地が乏しく、昔はここにほそぼそと段々の田畑を拓いた。昭和8(1933)年の津波の後、代々網元だったうちの父親が田んぼを、生き残った住民の移転地に譲ったんだ。できたのが『復興地』だった」 

昭和8年の津波の後、生き残った住民たちが高台を切り開き、集団移転した「復興地」=2023年11月30日
昭和8年の津波の後、生き残った住民たちが高台を切り開き、集団移転した「復興地」=2023年11月30日

昭和8年の津波、祖父が避難を号令 

きっかけとなった昭和8年の三陸津波は、正吾さんが小学2年の時だ。白浜で45軒ほどあった集落のうち残ったのは7軒で、その1軒が熊谷家だった。66人に上った犠牲者の顔を、大人も子どもも正吾さんは覚えているという。死亡、行方不明になった人々の名前を記録した大きなノートを見せてくれた。(注・昭和三陸津波は同年3月3日午前2時32分、三陸沖を震源とするマグニチュード8.1の地震の後に発生。沿岸で犠牲者3064人、家屋流出などは約1万戸に上った) 

「私は前の日、友だちと浜で遊んで、夕ご飯を食べて寝た。家では祖父の甚吉、父の勝男はじめ皆、眠っていた。突然大きな地震があり、甚吉が『津波が来る、起きろ』と叫んだ。父は電灯と提灯を点け、『はきものをそろえろ、火をたいて風呂を沸かしておけ』と言った。さらに祖父は『もう一度地震が来る、そうしたらドーンと鳴る』と言い、その通りだった。すぐさま家族で上の高い所に逃げた」 (注・『昭和八年三月三日 三陸沖強震及津波報告』(中央気象台 岡田武松)は『強震後各地に於て異常な音響を聞いた所が多い。此の音響は大砲を打つた樣な響と云ふのが多く而も多くは海岸で聞かれてゐる』と、おびただしい事例を紹介している) 

明治、昭和の津波で被災した白浜集落の跡地。手前は海岸の防潮堤
明治、昭和の津波で被災した白浜集落の跡地。手前は海岸の防潮堤

すでに津波は集落を越えて押し寄せ(綾里で遡上高28.1㍍)、周囲は叫び声であふれた。逃げてくる人たちは裸同然だった。「父たちは、子どもを抱いて震えていた母親らを何人も風呂に入れ、頭にけがをした人を助けて布団に寝せ、たき火を燃やして被災者を温め、わが家は避難所、救護所になった」。勝男はまた、ナタ、ノコギリを持ち出して、がれきの下になった住民を助け出して回ったという。 

夜中の津波で多くの犠牲者は出たが、生き延びた住民も思いのほか多く、「海岸に家があった山口という人は地震の後、『津波が来るぞ、逃げろ』と大声で周りに叫び続けた。37年前の明治29年の大津波で助かった人だった」。祖父の甚吉も、その経験者の一人だった。 

海軍の軍艦が支援物資を積んで来航した。はしけで30人ほどの水兵が食べ物や衣服を届けてくれ、熊谷家で寝ていたけが人たちの手当もしてくれた。正吾さんは、「明治29年に全滅したのに、なぜまた浜に集落を造ったのか。高い所に家を建てていたなら、こんなことには…」と子ども心に思ったそうだ。

住民挙げて自助の復興地造り 

「復興地」造りは、岩手県が国の低利融資の支援策を受けて被災地に提唱し、当時の綾里村は「村復興会」をつくって、湊、田之畑、石浜、白浜の四集落がそれぞれ高台に団地を造成することにしたという(『大船渡市 復興記録誌』より)。 

父勝男(明治35年生まれ、75歳で死去)は「昭和会」という白浜復興の住民活動の会長だった。集落挙げての復興地造りを呼び掛け、そのために自分の土地を提供すると申し出た。反対の声もあったが、毎日のように寄合を重ねて決した。「津波があり、上(高台)に新しい家を建てるのがわれわれの務めだ。われわれが(復興の)証人だ」という父の力強い言葉を、正吾さんは覚えている。

それからの復興地造りは、『急傾斜地を切り崩しての造成で、住民は人夫として雇われた。鉈、鎌で木の根を払い、唐鍬で土を掘り、縄で作ったモッコで土を運搬する』 難工事だったと「大船渡市 復興記録誌」は伝える。 

時は東北で娘身売りが横行する「昭和大凶作」のさなか。しかし、勝男ら昭和会は、復興地に電気の線を引き、漁港に新しい船引き場を整備し、流された明神様の社を遷し、満州事変への出征兵士と家族も支援し、集落の自助活動に奮闘した。 

「家を建てるのに300円(現在の貨幣価値で約19万円)の大金が必要だった。コメはろくに取れず、持ち山もない貧乏な集落で、政府は100円しか手当てせず、住民はやむなく200円を借金し、冬の土木工事などで働いて返した」と正吾さん。 

造成地はキツネやタヌキが鳴く所と言われたが、1軒、2軒と新築が始まると、皆がその気持ちになったという。白浜で2カ所生まれた復興地に4年掛かって計21軒が建ち、全住民が移った。

「漁師たちは浜から重い荷を背負って復興地上がるのが大変だった。そのたびに『勝男のせいだ』と文句を言われたが、父は笑っていた。後になって『おかげさまでね』とほめてもらえたんだよ」 

生き残った者たちだけでなく、一家全滅した6軒も、墓守が親戚に託された。一人、出征から白浜に帰った男性がおり、津波で家も家族もなくしたのを知って、天涯孤独の身で仙台へ去ったという。 

明治の津波で十人家族がただ一人に 

正吾さんが津波の恐ろしさ、その前兆を身に染み込ませたのは、昭和8年の体験に加え、幼い頃から「祖父甚吉が、明治の津波の話を聞かされてくれたから」と回想する。「じいさんは、寝床で子どもらから『きょうも話っこ、聞かせてけらい』とねだられて、いろんなことを語ってくれた」。白浜の昔話、キツネやタヌキの話、俵の中に悪い子を連れ去る老人がいるという「たわらがね」の話、夜の漁で光がポポポとわき出る「モウレン(幽霊)」の話、一番怖いのが明治三陸津波の話だった。「恐ろしいもんだ、いっぺんに何百人も死ぬ、こんな恐ろしいものはない」と。 

大船渡市綾里に残る明治三陸大津波伝承碑。道合というこの場所は、2方向からの津波がぶつかった地点といわれる

明治29(1896年)6月15日午後7時32分、三陸沖を震源にマグニチュード8.2~8.5の大地震が起きた。旧暦の端午の節句のその晩、白浜で「お騒人(そうじん)様」という神を拝む講があり、大屋家という高台の一番大きな家に旦那衆がコメを茶碗二つに持って集まり、法印(修験者)に集落と漁の一年の無事を祈祷してもらった。網元の熊谷家からは正吾さんの曾祖父に当たる村治が出た。が、酒を飲まない人で、直来の宴を早く退席して浜の自宅に戻った。雨降りの夜で村治は傘を借り、帰ると雨は上がったので、長男の甚吉(正吾さんの祖父)が言いつけられて渋々返しに行ったという。 

甚吉は大屋家の年寄りたちから餅をごちそうになり、帰ろうとした矢先に大きな地震が起きた。間もなく、「ドーン」と大砲のような音が鳴った。日清戦争が終わった後で、帰った兵隊がお祝いで大砲を撃ったかとも思ったそうだ。甚吉は家路を急ぐと、ざわざわと波が岩にぶつかる音が大きく響き、浜いっぱいにがれきが満ちていた。39軒あった家々が全部なくなっていた。

この時、津波の最大遡上高38.2㍍と記録された白浜で、犠牲者は約200人。熊谷家は家族10人のうち甚吉だけ生き残った。「助かったのは大屋家に残った人、流されて生きた人、逃げた人が30人。子どもは皆亡くなった」と正吾さん。3日目に兵隊が救援に来て乾パンをくれた。甚吉は拾ったむしろと木材、ササの葉で小屋を作り、昼は遺体を捜した。揚がったのは6人だけ、家族は見つからなかった。 

「だが、珍しいことではなかった。昔から何度も津波が来て、そのたび多くの家が全滅し、残った縁者が受け継いだ。だから、じいさんも小さい時から『地震が来たら津波だと思え』と聞いて育った」

記録し、語り伝えた人生の活動 

正吾さんは昭和8年の津波の後、成人すると軍隊に召集されて大湊(現むつ市)の海軍基地で終戦を迎え、24歳で網元の家を継いで自らも漁船に乗った。マグロ、イカ、サバなどを捕って80歳まで現役漁師を続け、地元では行政区長など30ほどの役職を長らく務めた。自宅の隣に、屋号から名付けた「岡田荘」という民宿も営んできた。 

甚吉さんの語り伝えを教訓に、戦前から「帳面、日記にすべて記録する」習慣を続け、区長などの活動で集落を巡りながら、津波犠牲者たちの名前、家族構成、家々に残る話などを聴き取り、寺や墓地にも足を運んで書き留めた(出征兵士、戦没者らの記録も)、今では貴重な資料だ。 

正吾さんが記録した昭和8年の津波犠牲者の名。一家全滅も多かった。「不」の字は不明者

人生の大事な仕事として続けてきたのが、明治以来の白浜の津波体験の伝承だ。地元の小中高校や婦人会、青年団などに招かれ、あらゆる機会に、昭和8年の津波の惨状とともに「地震が来たらすぐ津波が来る。すぐに逃げること」と語り続けた。海水浴で民宿に内陸の子どもたち、引率の教師たちが泊まる度に、「1時間、津波の話を聴いて」と講話をした。今も思いは衰えないが、コロナ禍から民宿は休業になり、以来、語り部活動の機会はないままだ。 

「かつては(大船渡市などに)昭和の『津波記念日』があり、戦前には岩手県が『慰霊の歌』『復興の歌』を作って、学校で歌われた。私は今でも歌えるよ。13年前の東日本大震災の前に、昭和にも明治にも、たくさんの住民が命を落とした津波が来た。その犠牲を繰り返さないために『復興地』を造った。そのことを知る若い人が今、どれほどいるんだろうか」 

正吾さんの祖父や父ら多くの先人が、子や孫、古里の未来を守ろうと、「命の伝言」を世代を超えて託してきた。それを途切れさせないでほしい―98歳の願いだ。 

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