【陸前高田 h.イマジン物語】ジャズ喫茶主人の夢路はるか④津波に消えた夢の店(下)

【寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】陸前高田にあれから丸10年が巡ってきた今年3月11日、土色のかさ上げ地に生まれたての街並を見下ろせる本丸公園。東日本大震災の大津波を目撃したのと同じ場所に立って「あの時」を回想する、ジャズ喫茶「h.イマジン」店主、冨山勝敏さん(79)の話は続いた。 

避難所生活始まる 

着の身着のまま、避難所が設けられたと耳にした高田一中の体育館に入ると、中は冷え込んでいた。灯油ストーブや工事現場用の送風機もあったが、避難者たちは壁際に力なく寄りかかっていた。被災を免れた地元の自治会が段ボールを集めて配ったが、冨山さんが着いたころにはもう段ボールが足りなかった。 

「防寒の足しになるような支援の衣類もあり、膝が破れた中学生のトレーニングパンツが目に入った。Gパンの上から履いてみると、暖かくて、『あ、これでいい』と安堵した。その晩は冷たい板の上で眠れず、壁に寄りかかって両膝を抱え、うたたねをした。また津波が来たかと思うくらいのすごい地響きもしたけど、外の模様はさっぱり分からなかった」 

「食べるものもなく、3日目におにぎり1個と紙コップ1杯の水が配られたと思う。『生きなくては』という本能が働いたんだろう、空腹を我慢できなかった記憶はないよ。近隣の自治会の人たちが一生懸命に駆け回って、追加の段ボールや、お年寄りや具合の悪い人たちに毛布を配り、コメや梅干し、たくあんなどを持ってきてくれた。鶏舎の自家発電機で精米したコメを届けてくれた農家もいた。そのうち支援物資が届くようになり、1週間後には菓子パンを食べた。 
支援品の仕分けも四苦八苦の状態だったが、本来世話役になる市職員は津波で100人以上も亡くなり(犠牲者は111人)、文句など言えなかったよ。洗濯は山の川水でやるしかなかったし、子供が泣けば、お母さんたちがまわりに気を遣って痛々しかった」 

2011年3月11日の津波の後、市立一中の避難所で着の身着のままの冨山さん(冨山さん提供)

店はどうなったのか。避難所の外に出られず消息は分からぬままだった。4、5日が過ぎて、商店街の知り合いから目撃談が伝わった。「あの時、マスターの店の屋根が、ふわーっと波の上に浮いているのを見た」「マイヤ(街にあった3階建てのスーパー)の建物に引っ掛かっていた大きな屋根があった。あれはマスターの店だよね」 

命の恋のように 

初めての出合いは震災に先立つ2010年夏、大人の恋のように運命的だった。高田の街の西外れ、坂道に面した石垣の上に立つ木造総二階、敷地は174坪の豪壮な構えの建物。地元伝統の気仙大工が建てた旧高田町役場庁舎という立派すぎる来歴だが、普請から約60年、空き家になって約20年を過ぎて色褪せ、朽ちかけ、屋根にたくさんの鳥の巣穴も見え、「お化け屋敷のような姿で眠っていた」と冨山さんは回想する。 

「冨山さんなら、きっと分かってもらえます。ぜひ、見に行ってください」。こんなメールをもらったのがきっかけだ。差出人は、大船渡市出身で現在ふるさと大使を務める鵜浦真砂子さん(環境マネジメントプロデューサー・米国在住)。この元庁舎は市にとって利用価値のない廃屋だったが、一方で「気仙大工が残した文化遺産の保存」を、鵜浦さんや地元の有志が訴えていた。市は250万円の値で払下げを試みたが現実の買い手は現れず、一千万円の解体予算が議会を通って、解体は秒読みだった。 

市職員に案内された現場には廃材も積まれ、第一印象は「すさまじい、大丈夫か」。だが、冨山さんは現役時代、東京で数々のホテルづくりに関わった経歴があり、その目には、旧庁舎だけに柱など部材が太く、構造体はしっかりしていると映った。そして、「壊さないで、どうにかしてほしい。お前ならできる」という建物の声が聞こえたという。「分かった、買うよ。ただし200万円に値引きを」と即答すると、市職員は「よかった。のどに骨が刺さったようでした」と安堵の表情を浮かべた。  

「お化け屋敷」旧高田町庁舎の大変身への工事始まる=2010年8月(冨山さん提供)

実はこの時、冨山さんは数奇な人生の何幕目かにいた。後述となるが、その7年前に東京から移り住んで、隣の大船渡に開いた最初のジャズ喫茶を火事で失い、陸前高田で借家暮らしをして再起を模索していた日々だった。「お化け屋敷」のようだった灰色の廃屋はそれから、冨山さんのイメージの中で、まるで新しい恋のようにみるみる新しい色と装いをまとい、わずか一日二日で何枚もの絵コンテになっていった。 

冨山さんが描いた絵コンテ

見る人を驚かせた彩り 

「床はあちこち抜け、しっくいは落ち、窓枠はやせ細り、ガラスはあちこち割れ、建て増しされた部分は半ば朽ちた状態だった。でも、さすが気仙大工の仕事らしく、土台や柱、梁は実にしっかりしていた。再利用して生かすアイデアが次々に湧いて楽しかった」。冨山さんは現場に通って職人たちに指示を出し、にぎやかに議論した。 

役所だった当時は25部屋もあったが、課を分けていた仕切りを取り払い、広々とした1階の喫茶店スペースを造り、朝礼や行事が行われた大ホールはライブなど催し会場にし、町長室は冨山さんの居住場所に変えた。建物前面の壁も思い切って取り払い、カフェテラスとなるウッドデッキを広げた。さらなる大変身はそれからだ。 

「こんな色に建物を塗るなんて、やったことのない仕事だよ」と、請け負った塗装業者は驚いた。冨山さんが選んだのは、外壁に渋めのペパーミントグリーン、その縁取りや玄関のポーチをイタリアンレッド、喫茶店になる1階の天井をオレンジ、内壁に上品なピンク。東北の田舎にそれまで存在しなかったような鮮やかな彩りだった。 

色鮮やかに完成した「h.イマジン」=2010年12月(冨山さん提供)

「住田町の木材店の社長が立派な太い部材を3本プレゼントしてくれ、その1つをカウンターにした。高い材料を使った訳ではなく、色でごまかしたような改修工事だったけれど、見に来た人たちはみんな、びっくり。我ながら『してやったり』だったな」 

完成したのは12月21日。その歩みを地元民放テレビはミニドキュメンタリーにして放映し、地元紙は「よみがえった旧庁舎 昭和ロマンの洋風館に」と報じた。知り合った音楽家夫婦による杮落としのバロック・コンサートに約40人の客が詰め掛けた。 

貧しく粗野な花売り娘がある日、1人の音声学者との出会いから美しい貴婦人に生まれ変わた「マイ・フェア・レディ」の物語のような、それは幻の夢の店になった。(次回に続く) 

建物の保存を運動した女性らの祝いの歌声=2011年1月(冨山さん提供)

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