【三浦真実】仙台市中心部のほど近く、寺院が多く建ち並ぶ閑静な地域にある連坊小路小学校に、大きな銀杏の木がそびえ立っていた。この木は2本並んでるように見えるが、実はひとつの木から枝分かれしたものだ。その木の樹齢は100年以上。聞くと太平洋戦争よりもっと前、大正時代に近くの寺に植えてあった木を移設し、それから成長したという。
私は小学校の近くに住んでいる。銀杏の木を初めて見た時の感想は「大きくてのっぽの双子みたい」そう思った。私も含めて小学校の保護者たちは、わざわざ銀杏の木の前を通って帰る人が多い。なぜか木の前を通ると、まるで何か言いたげな木に見える。だから、そばに行ってみたくなる、そんな印象を持っていた。
実は2021年の夏、銀杏の木は体調が悪くなり2本のうちの一本が伐採された。あれから一年。伐採前から地域の人々に聞いてきた「双子の銀杏」との思い出を、ここに書き残しておこうと思う。
空襲を逃れ、愛されてきた「のっぽの友達」
「通常1本の木から双子のように枝分かれしたまま大木になることは珍しいですよ」と、銀杏の木の手入れ全般を請負う行方植物園の樹木医である行方社長に教えていただいた。そして、いつも何か言いたげに見えることから、樹木医さんに「木は喋れるのですか?」と聞いたところ、「植物同士のコミュニケーションはあると言われている」とのことで、お世話の際は心の中で話すことはあるということだった。
この銀杏の木が大木になるまでには空襲で校舎が焼失したが、銀杏の木は難を逃れている。もちろんあの東日本大震災の時もびくりともしなかった。フサフサと豊かに葉を茂らせ、小鳥が休みをとり、きれいにさえずる声も聞こえる。夕方にはコウモリがカサカサと飛び立ち、餌を探しに出かける。小学校の子供達は、校庭に堂々とそびえる銀杏が、まるで大きなのっぽの友達が立っているかのようにうまくかわして避けたり、時には手で木の表面に軽く触れてちょっかいを出す。日常の風景に自然に溶け込んでいるのだ。
その銀杏は強い日差しの日は日陰を作り、運動会では父兄が木の下で競技やダンスを眺めることもあるし、卒業アルバムは必ず銀杏の木を囲むそうだ。何か声を出して喋るわけでもないのにその存在が、地域全体の癒しであり、シンボルとして愛されてきた。
銀杏の木を通じて広がる会話
小学校の生徒や先生だけではなく、地域に愛されてきた銀杏。銀杏の木の伐採の前日、学校に行くと、犬の散歩がてら銀杏の木に挨拶をしている男性がいた。聞けば、小学校のOBとの事だ。話しかけてみたところ、伐採にあたり「木にお礼を伝えに来ました」と話していた。そしてその言葉通り木に何か話しかけると、一礼をしてその場を去っていった。なんだか胸がほっこりした。
伐採後、この小学校のOBである仙台朝市の青果店の高橋正洋さんに話を聞きに行った。「小学生のころ、木の上に何度も登ったり、走っている途中に、木にちょっかいを出しに行ったなぁ」といい「小学校近くで、石田医院を営んでいる同級生ならもっと話を知ってるかも」とご友人を紹介していただく。石田医院の石田一彦医師には、木が昔は今とは別の場所にあって移設されたことや、二宮金次郎像があったが、今ではその頭部が校長室にあるはずだと教えてもらった。知らない話がたくさん出てきて、銀杏の木を通じて会話が広がる。
温かい雰囲気に包まれた、伐採の日
伐採当日の2021年6月12日。銀杏の木はみんなに見守られながら、上部の小枝から徐々に切られていった。こんなに長生きした銀杏の木の伐採を担当した植物園の方々はとても心苦しかったと言うが、伐採の式はとても多くの人が集まる、お葬式というよりは結婚式、そんな温かい空気に包まれた雰囲気だった。
切られた方の木は、校内に飾られたり、ベンチになったりと新たな形に生まれ変わった。そして今も、これからも地域に残り、人々を見守り続けている。
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