避難指示解除から6年の飯舘村比曽「地域喪失」から再生へ、行政区長の闘い(後編) 

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】2011年3月の東京電力福島第一原発事故の被災地、福島県飯舘村で、全村民の避難が解除されてから6年。除染で土を剥ぎ取られた農地を「健康な土」に回復させる、困難で孤独な仕事を成し遂げた比曽地区の農家菅野義人さん(71)=前編参照=は、地元の行政区長も担う。そこで取り組むのは、住民激減の現実から地域をどう再生するか―という、もう一つの難題だった。「復興」なお遠い古里への処方箋とは? 

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原発事故前と全く違う村に 

飯舘村の南部、比曽の細長い盆地を分ける県道の外れに、まだ新しい赤の郵便ポストが立つ。避難指示解除から5年後の昨年7月、郵便の集配業務が比曽で復活し、住民がようやく地元で投函できるようになった。それまで最寄りのポストだった村役場前まで、比曽から車で片道約30分掛かる。路面が凍り付く冬は難所の道になる。村唯一の郵便局(二枚橋地区の県道沿い)へはさらに約20分。農作業で忙しい菅野さんには、隣接する川俣町(人口約1万3千)の郵便局が近い。行政区長として住民へ早く送らねばならない連絡物も多く、「川俣で出す方が1~2日早くて確実だ」。 

昨年7月、比曽に復活した郵便ポスト=2023年5月2日、福島県飯舘村(筆者撮影)

日常の買い物の場も飯舘村では、やはり比曽から遠い道の駅「までい館」にコンビニが1軒あるだけ。村内の居住者が少ないため(5月1日現在で1518人、802世帯。村外との二拠点居住も含む)、原発事故前に食料品を扱った生協など商業施設や商店がいまだ再開せず、菅野さんは週一度の生協の宅配へ注文を出している。商店街がある川俣町でも、郵便局への用事の帰りに必要な買い物をしてくるという。 

「日常の買い物や医療の場の再開を、区長として何回も要望してきた。だが村は、箱もの施設造りなど国のお金を用いた『大きな復興』を急いで、村に帰って暮らしを再開する者の視点に立っての『小さな復興』を遅らせてしまった」 

避難指示解除に合わせて公設民営の医療施設「いいたてクリニック」が役場近くに開業し、医師が週2回(火、木曜の午前)の診療と往診を行っている。高齢の居住者には安心の場所になったが、「できることは限られるのが実情」と菅野さん。 

休みない農地再開墾のためか、膝の痛みに悩まされるようになり、やはり川俣町の専門の整形医で治療をしている。妻久子さんは避難生活中に脳出血で倒れ、自宅で二人暮らしの現在も定期的に福島市内の病院に通う。介助のヘルパーさんも週一回、川俣町から来てもらっている。訪問介護の事業所も、全村民避難とともに村を撤退し、「高齢者世帯の村」が現実の姿となった今も戻っていないのだ。「原発事故前の村とは全く違う。そこから出発しなければならない」と菅野さんは語る。 

「箱もの」優先で失われたもの 

現在の村内の居住者のうち、約100戸が村外から移住してきた世帯という。菅野さんによると比曽には2戸あり、農業以外の仕事に就いている。区長として話をする機会があり、「村内での住宅探しが大変だ、と聴いた」。全国の自治体が移住者の誘致を競う時代、飯舘村も、移住者(起業者も含む)に最高で200万円を、その準備中でも最高30万円を助成する(県の制度)。しかし、肝心の「借りられる家がない。村の復興住宅にも(被災者でないと)入れない」と菅野さんはこぼされた。 

飯舘村では他の原発事故被災地と同様、全村民避難の間、環境省の除染工事と併せて希望者の家屋解体が大規模に行われ、古い住宅の数が少なくなったこと、そして「村外の居住地から車で通って農業をする人が多く、『そのために村に自宅を残しているので、他の人には貸せない』という事情がある」ことが理由だという。 

新しい村づくりを、新しい住民の力を入れて進めたいなら、村役場そのものが移住受け入れに本腰を入れねばならないが、実際は、村外の「移住ビジネス」の業者に国の補助金ごと委託しているという。菅野さんも、区長の1人として委託業者の選定に参加したが、ヒアリングで「飯舘村の特徴は何ですか?」と質問しても、返るのは一般論で、村の特徴や地区の地域性などに適切な答えがなかったという。 

菅野さんは村に協力するつもりで昨年、比曽にある家ごとに移住受け入れの可能性の有無を、「祖父母は亡く、息子さんは村外で暮らす」などの現状から「A~D」の4段階で考えてみたという。その結果、数戸に可能性があり、それを紹介すると、村の職員や業者からびっくりされたそうだ。菅野さんは逆に、自ら実践してきた農地の土の分析などと同じく、「その土地に合ったやり方を、歩いて調べて見つける」という汗かきが、村づくりに関わる以上は当たり前なのでは…と驚いた。 

「復興」からいまだ遠い比曽の風景=2023年5月2日、福島県飯舘村(筆者撮影)

「原発事故の後の村は、国の莫大な復興予算と大型のハード事業に依存して、かつての『地域から手づくりする』村づくりの原点を忘れた。失ってきたものの方が大きい」。村議も16年間務めた経験のある菅野さんから、こんな言葉も聴いた。 

国への依存を象徴したのが、筆者も取材した、原発事故後の村の復興計画づくり過程だ。計画当初の策定委員は村民(10人)主体だったのに、3年後は「有識者」が10人、村民は5人に減り、事務局には東京の大手コンサルタント会社から6人も。同じ社が行政区ごとの住民の意見聴取会も請負い、村は丸投げの状態だった。 

村予算は原発事故前年の約41億円から、19年は国の復興支援で3倍余りに膨張。幼稚園・学校新設とスポーツ施設に50億円、新公民館に11億円、道の駅に14億円など、「復興のシンボル」と銘打つ箱ものが建ち、祝賀式に復興大臣がやって来た。疑問をぶつけた菅野さんに、役場の財政担当が「村の中で時間を掛けて議論をしていたら、国の事業に乗り遅れてしまう」と言った―と当時の取材ノートにある。 

分解の危機にある行政区 

住民の数の激減は、行政区という、住民の自治と地域づくりを担う組織そのものを危うくしている。移住者を合わせて、居住する世帯が原発事故前の4分の1以下になった比曽では、区長の菅野さんが苦心を重ねながら、避難指示解除後の現実に合わせた運営の改革に取り組んでいる。「解除後、長年の地元の仲間から会合でこんな声が上がるようになった」と、その一例を菅野さんは聞かせてくれた。 

〈避難先でずっと生活を続けているのに、遠くなった行政区で役員をやれと言われてもできない〉 
〈行政区は、いつ解散するのか?〉
〈どうせ戻る人は少ないのだから、運営は行き詰まるだろう〉 
〈役員に指名された時は、住所を(比曽から現在の居住地に)移すつもりだ〉 
〈地区のお金(行政区がプールする、集会所への東京電力からの賠償金など)は早く住民に分けた方がいい〉 

煎じ詰めれば、行政区はもう不要という意見だった。そもそも飯舘村での行政区は、一村に合併する以前からの長い歴史ある「旧村」がルーツで、20を数える行政区の連合体が現在の村といっていい。田植え前の水路の泥払い、道路わきや墓地の草刈りなどは「結」の伝統を受け継ぐ共同作業であり、祭りや行事、冠婚葬祭、農作業や牛の出産の手伝い、地域づくりの活動、持ち上がった問題の合議と解決、村役場との交渉まで、生活の助け合いの世話役、差配役が、行政区という組織だ。 

原発事故前、住民たちが集った用水路点検の共同作業=飯舘村比曽(菅野さん提供)

『避難生活の中で、どこも三世帯同居が普通だった家族がばらばらに…』という家々の現実を本稿前編で紹介したが、同様の分解あるいは分裂が、「帰還するか、避難先に住み続けるか」という個々の選択とともに地域の共同体でも起きていた。 

「区長の新しいなり手がいなくなった、という悩みを村の区長会で聞かされる」と、菅野さんは言う。行政区長は『村と住民の連絡調整を図り、行政の浸透及び区住民の福祉向上に努める』と条例で定められた公務で、村長から委嘱(任期2年)され報酬も支給される。それだけに村からの要請や指示、事務連絡、住民の調査、期限を切って回答を求める文書が山のように来るし、役場の会議は多い。地元に帰還していない住民の現住所もばらばらな今は、その手間は倍増どころではない。 

「原発事故前は、朝仕事や共同作業に出れば、近隣の仲間と話や情報交換をし、日常に地域への関心を共有し、行政区の連絡事項をすぐに伝え合えたが。村からの連絡は山のようにあり、書類を封書にして、期日があるものは2、3週間前に届くように郵送しないといけない。会費を集めるのが大変というのも大きな問題だ」 

地域の新しい現実への改革 

菅野さんに「区長になってほしい」と話があったのは、避難先から比曽に戻った翌18年。妻を支えながらの開墾生活に加えての公務は重く、「できたら勘弁してほしい」と辞退した。が、2年の猶予をもらって引き受けることになった。このまま地域が崩壊してゆく現実を座視できなかったからだという。 

住民の立場と行政区内部の両方から菅野さんらしい問題点の洗い出しをし、これまでに①管理者不在となり宙に浮いた集会所の会計(共有財産)を、将来の運営資金として積み立てる ②区長に仕事が集中する現状から、新たに「産業部長、建設部長」を設けて責任、村との対応を分担してもらう ③構成員の規約を「比曽行政区に居住する世帯主」から、「居住する住民、もしくは東日本大震災時に居住していた住民」とし、未帰還の住民や女性にも資格を広げた―などの改革を決定した。 

行政区の改革案をまとめた資料を前に語る菅野さん=2023年5月2日、飯舘村比曽の自宅(筆者撮影)

「今年3月の行政区総会で私からの提案に、『また、みんなでやっていくべ、ということなんだな』と真っすぐな声が上がった。行政区のことはやりたくない、と言っていた人だった。『その通り』と私は答え、昔の関係にちょっと戻った感じがして、うれしかった」。ただ、それだけでは改革は半分だと菅野さんは考える。 

「避難先だった福島市に今は住んで仕事をしている人から、『平日の対応ができず村にも行けない。だから行政区の役員はやれない』と言われた。どの行政区でも、そういう人は多いはず。それなら、週末に参加してもらうことはできないか。そんな実情から村にも、週末に地域の活動をサポートする担当を置いてほしい」 

菅野さんは役場に話を持っていったが、「村民の調査をしてみる」と回答があっただけという。原発事故以降、村民と役場の間の距離が遠のいた実情を、先に復興事業の事例で紹介したが、菅野さんによれば、村の寺の住職である杉岡誠村長らを除くと、職員の多くが避難指示解除後も村外からの通勤者なのが現実という。 

「日ごろの仕事は承知しているが、かつてのような村の生活者、地域の当事者でなくては、行政区が抱える難題も『我が事』として考えられる、分かることにはならないのでは。新しい現実にある地域のお世話役になり、行政区を助けてほしい」 

菅野さんは、20代で農協畜産部会の三役に推され、43歳から比曽の副区長を経験した。村議になったのも地元の人々に押されたからだ。「若いやつにやらせよう、と人を育てる気概が地域にあった。若い世代が発言し、意見を表明する場を、年長者は準備しなくてはならない」との考えてきたという。それゆえ地域の担い手を「次世代に継承する」営みがこのまま消えてしまうことを危惧している。「ましてや村の復興は新しい世代に担ってほしい。いろんな立場、年代の人と議論し、自分の仕事、やるべきことを見つめ直し、新し知恵を出してほしい。行政区とは本来、そういう場所なんだ」 

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