【寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】石川秀一さん、春江さん=共に74歳=の夫婦を陸前高田市に訪ねたのは6月下旬、3年ぶりの取材だった。2011年3月11日の大津波で、消防団活動をしていた長男政英さん(37)を亡くし、癒えぬ悲しみを背負った。夫婦は家業である特産の椿油作りを4年前に再開し、もう一つの家業の農業も昨年、本格的に復活させた。その後継者だった正英さんの跡を、娘婿の後藤淳さん(48)が転職し引き継いだ。苗が青々と揺れる今、「幸せが帰ってきた」と春江さん。被災地のある家族の再生に触れた。
家と家業、長男を津波に奪われ
椿の赤い花を飾りと、椿油と同じ黄色の板に黒々と〈創業昭和三十年 石川製油〉と画かれた大看板。陸前高田市竹駒町の国道沿いにある、石川さん夫婦の椿油の店と製油所だ。秀一さんの父正雄さん(故人)が始めた家業で、椿油は天ぷらなど料理、髪油や保湿油、「気仙大工」で知られる職人の道具、機械や金物類のさび止めにも用いられた。温暖な気仙地方はヤブツバキの名所で、その実から家族が自家搾油した伝統がある。牛を飼い、田を耕していた正雄さんは、その当時に世に出た農業機械を使って新しい家業を興そうと、椿の実を近隣から集め、油の製造販売と、米粉作りの看板を上げた。秀一さんが父の後を継いだのは1992(平成4)年だ。
現在の「奇跡の一本松」が立つ場所に近い、同市気仙町中堰にあった石川さんの家と製油所、田畑は12年前、津波ですべて流された。「わが家では、家族経営協定を結んで農業をしてきた」と秀一さん。耕作受託も含め10㌶の稲作をして地元のホテル、弁当屋にもコメを販売し、40㌃の畑とハウスでトマト、キュウリ、レタス、スイカなど多彩な野菜を栽培し、産直や道の駅、個人の客に出荷した。政英さんは、「家業を継いでほしい」という父の説得で震災の3年前、農協職員をやめて農業修業をした。春江さんは経理を担当し、2世代の夫婦と娘さんの和やかな家族農業だった。
政英さんの死は、農業機械の操縦に慣れ、「搾油機のトラブルも自分で直せるほどになっていた」(秀一さん)ほどに跡継ぎらしさが増したころだった。希望を失った石川さん夫婦は「家業をやめよう」と決め、震災後、市の就労支援施設からの依頼で椿油の技術伝承の手伝いに通った。が、昔なじみの人たちから「人の施設でやるなら、また始めたらいい」「応援するから」と声を掛けられ、悔しさを力に変えて再起を決意した。地元の商工会の応援で、資金の75%を国が拠出する中小企業グループ化補助金の申請をし、1300万円の新しい搾油機を買った。夫婦で椿の実を集めながら、現在地に仮工場を経て製油所を本格稼働させたのが19年3月である。
新たな後継者になった娘婿
製油所のすぐ南にBRT(鉄道線路跡を走るJRバス)竹駒駅があり、その向こうの気仙川沿いに青々と苗が育つ田んぼが広がる。河口から約4㌔上流に当たるが、震災時は竹駒町の一帯も津波のがれきで埋め尽くされた。政英さんがいた気仙分団の消防車や、石川製油所の黄色い看板が偶然にも漂着した場所でもある。その跡が復田されて、秀一さんは今年、15㌃の田んぼを借り、長女さゆりさんの夫、後藤淳(あつし)さん(48)=大船渡市出身=にコメ作りを任せた。淳さんは昨年5月、高齢者介護施設の仕事を辞めて就農したばかり。1年を通じた農作業は初の挑戦で、トラクターや田植え機を自ら操縦し、春の田起こしから苗の植え付けを体験した。
秀一さんは震災前、耕作受託分を除いて高田松原の近くに4㌶の水田を持っていた。被災した土地のかさ上げ、復田を経て持ち主に返された時、政英さんを亡くした消沈もあって「もう田んぼはやめよう」と、うち40㌃だけを手元に残して、大半を意欲のある農家に貸したんだ」と話す。農業を再開した時点で、自らの田んぼは他に、竹駒町の新しい自宅近くに30㌃分があるだけだった。「それが今、足りなくなった」という。15㌃の水田を新たに借りた理由だったは「米粉」作りだった。
椿油、農業のほかに米粉作りも、父の代から石川家の家業の一端だった。椿油製造所の一角では、米の乾燥、米粉作りの大きな機械が稼働している。米粉(うるちともち米)もまた、陸前高田の生活に欠かせないものだった。「お菓子屋さんからの注文だけでなく、家庭で餅や米まんじゅうを作るし、とりわけお盆には、ご先祖の供養に餅を供えるの」と春江さん。12年前の津波は、約2万4千人が暮らした街から1757人の命を奪った(市の記録・行方不明者も含む)。お盆になると、身内を亡くした家々は追悼の祈りを込めて餅を作る。春江さんもまた政英さんのために。
縁の絆でつながれた一家
そんな石川家の家業の担い手に加わった淳さんは、いきさつを振り返った。「農業を手伝ってほしい、と父から説かれたんです。おととし田んぼを再開し、去年はハウスの野菜も始めた。お兄さん(政英さん)が亡くなり、父一人では緩くない仕事だし、年齢と将来を考え、一緒にやろうと決めた。私もまた(津波から逃れて)生かされた身だから、これから家族のために役立つことをしたいと思った」
淳さんは震災直前、さゆりさん、赤ちゃんだった息子・叶翔(かなと)さんとアパート暮らしをしていた。津波を必死で逃れた3人を、翌々日、秀一さん、春江さんが避難所に迎えに駆け付け、悲劇のさなかに一家の絆を深めた。製油所から近い竹駒町の山あいの自宅は、「もう海を見るのは嫌」という春枝さんの気持ちから、6年前、海抜40㍍ほどの土地に建てた。以来、淳さんの家族も同居している。
「トラクターの運転などは一通り、父さんから指導を受けました。まだ一人前ではないけれど、『任せるから、やってみろ』と励まされてきました」。畑で採れる新鮮な野菜を産直に運ぶ作業も託されて忙しいが、地元の人たちを知り、交わる経験を積んでいるという。「でも、難しいのは椿油作り。さすが父さんは熟練のプロで、搾油機が動く音を聞いただけで、実がどれだけ搾られているかの状態を言い当てる。でも、椿の種を搾った油をろ過し、美しい黄色の油を見た時は感動します」
石川家の男たちをつなぐ縁の糸はもう一本ある。野球である。秀一さんは若いころ、大船渡高、社会人まで野球に熱中し、地元愛好会の高田クラブでもプレーした。淳さんも高田高でキャッチャーをし、今も竹駒町の地域リーグで現役選手だ。そして、秀一さんが「希望の星」と期待しているのが孫の叶翔さん(19)。進学先だった一関学院高(一関市)で父と同じキャッチャーとして、昨年の夏の甲子園大会に出場した。今春からは大学野球の強豪、東北福祉大野球部の1年生選手だ。石川製油所の店内の壁には、甲子園での叶翔さんの写真が誇らしげに貼ってある。
復興遠い街で一緒に生きてゆく
「うちには、米粉作りだけでなく、外に自動精米機もある。コメを持参したり、『自家用の油を搾って』と椿の種を持ち込んだり、お茶を飲みに寄ったり、いつも人が集う。私自身、市の農業委員の仕事もし、商工会とも家業再開の折に付き合いが深まり、震災後の新しいつながりも生まれた。孫の甲子園出場も、明るい話題にしてもらえたよ」と秀一さん。あの津波を生き延びた農家たちも高齢化し、将来は見えないままだという。そんな復興いまだ遠い街の活気につながれば、と願う。
明るくおしゃべりする夫婦には、胸に癒えぬ悲しみがあった。春江さんが肌身離さず持っているものは、ハンカチで包んだ政英さんの写真だ。「後を頼むからな」―それが両親への最後の言葉だったという。正英さんは、市の消防団長を務めた秀一さんの後を継いで気仙分団の班長をし、あの日の大地震の後、気仙川に架かる姉歯橋の水門を閉め、車の避難誘導をするために「俺、消防(団)に行く。後は頼むからな」と家を飛び出したという。その言葉は、それからの一家再出発への遺言にもなった。春江さんは、3年前の取材でこう話してくれた。
「政英はたまに夢に出てきてくれて、『ああ、お兄ちゃん、逢えてよかった……』という時がある」「震災前の普通の姿でね。こんなに元気でいたんだなと思い、目が覚めると、ああ、夢だったんだな、と。政英は何も語らないけれど、『何かに気をつけろよ』と伝えてくれてるのかな、と一人感じて、『何も心配ないから大丈夫だよ』と仏さんに向かって言うの」
家族みんなの力で復活させた家業とともに、復興いまだ遠いこの街で生きていく―。そんな両親を、写真の政英さんは凛々しく真っすぐな目で見守っている。
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