【続・仙台ジャズノート#112】ミュージシャン石ケ森宗悦さんに聞く(下)まだまだ続く音楽人生

続・仙台ジャズノート】定禅寺ストリートジャズフェスティバルなど、独特のジャズ文化が花開いてきた仙台。東京でもニューヨークでもない、「仙台のジャズ」って何?
街の歴史や数多くの証言を手がかりに、地域に根付く音楽文化やコロナ禍での地域のミュージシャンたちの奮闘を描く、佐藤和文さんの連載です。(書籍化しました!

佐藤和文】石ケ森宗悦さん(72)がスタジオミュージシャンとしての可能性を切り開くには、単なる偶然とは言えない理由が幾つもありました。「当時のスタジオミュージシャンにはジャズ、ロック、ポップス、ブルース、フュージョン、歌謡曲、シャンソン、カンツォーネ等々あらゆるジャンルの音楽に平均値を要求されました。三味線の師範の免許を持っていたことも強みとなり、仕事の幅を広げたように思います」

スタジオミュージシャンとして仕事を引き受けるには、単に曲を知っているだけではなく、楽譜を渡されたらその場で読める必要があります。石ケ森さんは20歳になるまで譜面が読めなかったそうです。

「そんなわたしが半年で全てのキー(調)の初見が仕事レベルで出来るようになりました。移調、転調も譜面を書き換えないで読めるようになったのは『移動ド読み(度数読み)』を駆使できるようになったためです」と石ケ森さん。ギターの場合、左手で押さえるフレットの位置をずらすことでキーを平行移動する機能があり、そうした楽器特性を生かすことでキーが変わっても譜面を読めるようになりました。このことがなければ仕事の世界に行ける可能性はゼロでした」

帰郷してからの石ケ森さんにとって、当時、高校一年生だった佐々木貴之さんとの出会いを忘れることはできません。「20年ほど前のことです。ひとりの高校生がギターでプロになりたいとやってきました。当時でも技術はずば抜けていて、才能を感じましたがプロを目指すにはまだまだ知識と見聞が足りませんでした」

「ジェムストーン」ラストコンサート風景

石ケ森さんが中高校生のころ、地元ではエレキギターを手にすることすら難しく、指導してくれる人もいませんでした。「その悔しさもあり、貴之君には自分が上り詰めることができなかったところまで行ってほしかった。自分の夢を託す気持ちで指導しました」

貴之さんがプロを目指すには、両親を説得するという、もう一つの壁がありました。貴之さんの気持ちを確認しながらつくった計画は、まず両親との約束だった大学を受験して合格、しかし、大学には行かずにプロの道に進むことを両親に分かってもらうためにジャズ・ギターコンテストで結果を出すことを目指しました。子弟が一体となって猛練習した結果、全国で一位になりました。米国のバークリー音大も特待生で合格しましたが、貴之さんが選んだのは師匠と同じスタジオミュージシャンの道でした。

石ケ森さんは当時を振り返りながら「あのコンテストで審査員を務めたのが渡辺香津美でした。わたしにジャズの道をあきらめさせた天才が自分の教え子を認めてくれたのは何か深い因縁を感じます」と笑いながら話します。

貴之さんは現在「佐々木コジロー貴之」と名乗り、米津玄師、Aimer、ゆず、水樹奈々、King&Prince、エレファントカシマシ他、作詞、作曲、編曲も手掛け、業界トップレベルのスタジオ・ミュージシャンとして活躍しています。

石ケ森さんは貴之さんの気持ちや両親の考え方などを把握したうえで、必要な技術を伝えました。単にギターがうまいだけでプロとして通用するわけではありません。音楽技術的なレッスンはもちろん、音楽の世界で多くの優れた演奏家や専門家に出会うことの重要性について伝えました。

佐々木”コジロー”貴之さんのようにプロ志向の強い人たちへのサポートはもちろんですが、石ケ森さんの音楽指導を12年にわたって受けてきた地域の音楽グループ「ジェムストーン」の例も紹介しなければなりません。

「ジェムストーン」はもともと石ケ森さんを講師に迎えてスタートした公民館のギター教室が母体。メンバーのうち女性ボーカル4人をフロントとするグループとして活動してきました。ギター教室発足当時から教材となる楽譜を石ケ森さんがすべて準備、必要に応じてサポートバンドを講師陣で編成してきました。どんな曲を取り上げるかもメンバーの希望によって決めてきました。

宮城県古川支援学校の校歌CDなど、地域のために石ケ森さんがかかわった作品は数多い。

指導者が生徒と一緒に演奏してくれる機会は生徒にとって刺激になり、勉強になります。残念ながら「ジェムストーン」はメンバーの仕事面の環境が変わったため先日、解散コンサートを開きました。その際、「ジェムストーン」をサポートしたのが「ピックアップ」の講師たち。講師陣は妻の悦子さんがピアノで参加するなど、石ケ森さんが長い間ともに演奏し、その腕を評価した地元のミュージシャン仲間が参加します。どこまでも地元密着の音楽活動である点を忘れてはならないでしょう。

石ケ森さんがスタジオミュージシャンとして培ってきた音楽の幅の広さが故郷での音楽指導に生きている点は見逃せません。特に心身にハンディを抱えた人たちと音楽を通じて交流する取り組みが音楽家としての自分を育ててくれた、と振り返っています。

「福祉の分野での音楽活動は30年前に遡ります。重い障害を持つこどもさんがいて、音楽を聴くときだけ身体が反応するというんです。お母さんからレッスンを頼まれてまず3人で食事することから始めました。車いすからの移動も母親に代わって石ケ森さんが背負う形で引き受けたそうです。慣れるに伴い、ものの受け渡しができるようになり、そばに置いたタンバリンを『トントン』とたたくようになったそうです。「お母さんにとってはそれだけのことでも、大きな出来事で、とてもうれしそうにしていたのが忘れられません」

平成12年(2000年)に石ケ森さんがポップス調に編曲した宮城県古川支援学校の校歌はピックアップでCD化され、毎年の新入生に寄贈され歌い継がれています。同支援学校には小学校から高校まで知的障害を有するみなさんが通っています。

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