【加茂青砂の設計図】二番目の船「真漁丸」佐藤真成さんの物語①ラブレター

連載:加茂青砂の設計図~海に陽が沈むハマから 秋田県男鹿半島】秋田県男鹿半島の加茂青砂のハマは現在、100人に満たない人々が暮らしている。人口減少と高齢化という時代の流れを、そのまま受け入れてきた。けれど、たまには下り坂で踏ん張ってみる。見慣れた風景でひと息つこう。気づかなかった宝物が見えてくるかもしれない――。
加茂青砂集落に引っ越して二十数年のもの書き・土井敏秀さんが知ったハマでの生活や、ここならではの歴史・文化を描いていく取材記事とエッセイの連載です。

佐藤真成さんは、学校を卒業して以降の「漁師人生」を時代順に振り返った後、気になる言葉を口にした。「生きていく、それだけで精いっぱいだった。よく生きてこられたと思う。辛い思いさせたしな」。話が途切れた。サザエ網を同じリズムで繕う手を、休めようとはしない。破れた穴に糸を通して、ふさいでいく。はみ出たところをはさみで切る。「辛い思いって、どういうことですか」「誰かに何かしたってことなの?」と、臆面もなく質問しても、答えなかった。自分の心とだけ向き合い、何も聞いていないようだった。待つ。覚悟を決めたのか、顔が少し赤らむ。

「おれと結婚しなければなあ……。県内の裕福な農家に生まれ、お嬢様育ちだったんだ。海のことは何も知らないし、畑仕事だって一切、したことがなかったんだ。おれと一緒になったもんだから……。苦労のしっぱなしなんだよ」

冬場は、来シーズンに向け、サザエ網の補修をする大切な日々

結婚したのは1966年(昭和41年)。ということは、これまでの55年間ずっと、「妻に辛い思いをさせた」という申し訳なさを、抱えてきたのか。申し訳なさは慈しみと共にある。真成さんは、あふれ出る思いを、抑えるかのように、ひとことひとことを、かみしめて話した。真っすぐに深い思い。辛い思いをしたのは、二人ともなのだろう。だからお互いを大切にする。「人は、こんな風に生きることもできるんだ」。カッコイイ。「真成さんの55年間の思いは『ラブレター』そのものを、生き抜いたってことじゃないか」

真成さんとは、公にする前に原稿を見せる、と約束している。この書き方はどうだろう。「だめだ」と言うだろうか。真成さんの返事は「面と向かって言えないことだからなあ。このままでいい」だった。

秋田市の大手化粧品会社に勤めていた妻と、結婚するまでのデートの話が楽しい。出会ったのは、乗り組んでいた底引き漁船の船主宅。二人で乗るのは50㏄バイク。法律違反だが、もう時効である。原付バイク、原チャリと呼ばれる小さなオートバイで、入道崎、八望台など男鹿半島内の名所に出かけた。グイン、バリバリ、トコトコトコトコ。「どこかでラーメンでも食ったかなあ」

「もっとが?仕事休めなくて、出かけられなかったからなあ。家の近くのハマで、お互いに写真を撮り合った。岩場に立ったり、腰を下ろしたりして、海を見つめるポーズを作るのよ。『海に思いを託す』。なっ、ロマンチックだべ?」

結婚してからは「何やるにも一緒。二人だからできた。ひとりでは何もできねえ」。例えば春先の天然ワカメ漁。早朝、真成さんが沖から採ってきたワカメを、一歳年下の妻の千鶴子さんと干す。干しても夕方には家に取り込む。何日かかけて、しっかりと干す。家の中は磯の香りで満たされる。束にまとめ、形を整える。袋に詰める。農家が秋に収穫するコメと「物々交換」するための大切な製品。真成さんは千鶴子さんに、作業の一つ一つを説明しながら教える。或いは、網外し作業。仕掛けておいた網にかかったサザエや魚を外す。千鶴子さんにとってすべてが初体験。「化粧品会社に勤めていたのに、化粧する暇もなかったべ」

真成さんは昨秋、30年も漁を共にしてきた持ち船「真漁丸」を廃船にした。エンジン部分を外すなど、できる範囲は自分で解体した。老朽化した船体だけになった「裸の船」が、コンテナ専用車でハマから運ばれていくのを見送った。(続く)

中学校時代の学芸会(左から4人目)。一緒に演じた同級生たちは、ほとんどが亡くなっている(提供写真)

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