【加茂青砂の設計図 #8】蜂起

連載:加茂青砂の設計図~海に陽が沈むハマから 秋田県男鹿半島】秋田県男鹿半島の加茂青砂のハマは現在、100人に満たない人々が暮らしている。人口減少と高齢化という時代の流れを、そのまま受け入れてきた。けれど、たまには下り坂で踏ん張ってみる。見慣れた風景でひと息つこう。気づかなかった宝物が見えてくるかもしれない――。
加茂青砂集落に引っ越して二十数年のもの書き・土井敏秀さんが知ったハマでの生活や、ここならではの歴史・文化を描いていく取材記事とエッセイの連載です。

土井敏秀】蜂起した878年(元慶2年)3月15日の前日、14日。

「炎立つ」など、蝦夷4部作を著した作家高橋克彦は、小説「水壁~アテルイを継ぐ男」の中で、主人公らに翌日の戦いに臨む心境を、こう語らせている。

「何十年とただ堪え忍んできた蝦夷が、ようやく新たな一歩を踏み出す。その先頭におれたちが立っている。それだけでいい」

「われらの難儀など、なにもできずに飢え死んでいった者たちの苦しみや絶望に比べればなにほどのものか。あの者たちの望みがすべてわれらに懸けられている。明日戦うのはわれらだけではない。皆が空の上でみまもってくれているのだぞ」

元慶の乱について、蜂起した側の記録、文書は見つかっていない。調べる資料としては、ほとんどを公文書「日本三代実録」に頼らざるを得ない。

それを踏まえて、作家は想像力を膨らませ、読む人を高鳴らせる。研究者は推理を交えて解読を進め、当時の再現を図る。

蜂起したのは秋田城以北の12村の住民とされる。米代川沿いの上津野(現・鹿角)、火内(大館・比内)、褞淵(鷹巣・阿仁)、野代(能代)、河北(山本・琴丘)、八郎潟周辺の腋本(脇本、♡男鹿蝦夷は生き延びていたネ)、方口(八竜・五里合)、大河(大川)、堤(井川)、姉刀(五城目、方上(潟上)、焼岡(金足)で「賊地12村」と呼ばれた。

「元慶の乱と蝦夷の復興」では「この十二村は総て村であって、律令制の郷ではない。蝦夷もしくは俘囚の村ということになるが、蝦夷の村であっても秋田城を通じて出羽国府と朝貢関係(実質的な交易)にはあった筈だ。保則が十二村を『秋田城下』と書いており(後略)」と説明している。

元慶の乱関係要図(秋田城跡歴史資料館、許可を得て転載)

秋田城攻撃に参加した人数は定かではない。12村の蝦夷、俘囚だけでなく、秋田城の南で暮らす百姓、俘囚も参加した可能性も高い。同書は「飢えているのは蝦夷も百姓も同じ、収奪している敵も同じ秋田城司。その秋田城を襲って、食料を取り戻すという蜂起に、百姓が加わらない筈はあるまい」と記している。

乱当初、住民側が圧倒的優勢で勝利した。「元慶の乱・私記」は「(秋田城は)叛乱の起こるやいなや、周辺の郡役所、民家を含めてたちまちのうちに焼亡してしまう。いわば電撃作戦である。(中略)相当大規模に組織され、指揮命令系統が整備されておらぬ以上、これは不可能なことである。しかも、直接行動が相手に気づかれぬよう隠密に事を運ぶ必要もあろう。単なる烏合の衆や、一朝一夕の相談でなせるわざではない」と分析している。

叛乱は一度だけではなかった。以下は「元慶の乱・私記」の年表「『日本三代実録』による元慶の乱略経過」による。

4月16日 この日から十八日あたりにかけて、官軍六百人、野代営への途次、焼山付近で賊一千余に包囲され殺略さる。脱帰者わずか五〇名。

5月7日 俘囚三人来たり。「秋田河以北を己が地となさん」とする要求を伝える。

5月25日 兵五千を率い、秋田城に武器、糧食を摘む。賊、秋田城を襲撃、官軍大敗走。城中の武器、糧食、衣類、馬、ことごとく賊に取られる。秋田城陥落。

「元慶の乱・私記」で田牧さんは、大角(はら、吹き鳴らす)や鼓などの楽器類も盗んだことに触れ、「古代東北の住民は(中略)歌と踊りと音楽に熟達しており、生活を楽しみながら地域人としての連帯や団結を強めておっただろう」と想像している。

8月29日 逆賊三百余人、城下に来たり降を乞う。

戦いを有利に進めていた住民側が、降伏したのである。(つづく)

エッセイ:よくぞ、ここまで

この3枚の写真(「カマキリの成長アルバム」より)が、すべてを物語っています。撮影地はどれも、わが家の裏の畑です。

「誕生」(5月18日)

生まれたばかりは天敵だらけ。足を踏み外し、地表に落ちると、あっという間にアリの餌食、なんてこともありました。

「ある日の朝食」(8月9日)

まだ羽が生えず、飛べなくても、じっと待ち受ける。例えばナスの花の下で。蜜を求めてやってくる、ほかの虫を。素早く振り下ろす2本のはさみ。クマンバチだってこの通り。「お食事の時間に、失礼しました」

「堂々の成虫ぶり」(9月20日)

何も言うことはありません。羽も生えそろい、「ほんと、ご立派なお姿です」

お断りをするまでもなく、同じ個体かどうかは分かりませんが、カマキリという種の「成長記録」です。ほぼ4か月で大人になったのです。

素人目にはこの成虫が、雌か雄かは分かりません。どちらにしても、これからは子孫を残すための日々です。この裏の畑で確認された成虫は、これまで3匹。どこかへ飛び去って行くのか。どこからか飛来してくるのか。

ここで巣を、作ってくれたらいいな。来年を待ちわびる、新しい命の塊が風雪に耐える。

早くも来年へのバトンタッチが準備できました―裏の畑で、カマキリの今年の卵塊を発見

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