迫られた解体、苦悩し残した旅館 原発事故から13年、帰還困難区域の福島・浪江町津島の今 

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】福島第一原発事故で「帰還困難区域」となった福島県浪江町津島。地区のわずか1.6%が昨年3月末、国から「特定復興再生拠点区域(復興拠点)」に指定され、除染とともに役場支所などが開いた。が、この1年で風景は変貌した。草生していた無人の家々の多くが消え、砂利の更地に。指定とともに1年以内の有無を言わさぬ「公費解体」申請を、避難先の住民たちは迫られたのだ。原発事故から13年間も戻って住むことが許されなかった、わが家との非情な別れ。「先人、家族、仲間との絆の証をなくしていいのか」と苦悩した末、自身が4代目の歴史ある旅館を残す決断をした人もいる。理不尽な歳月が今なお続く被災地住民の思いを伝えたい。

住民が「ふるさとを返せ」裁判 

「旅館 松本屋」。古木を縦に割った分厚い看板に黒々と墨書されている。赤いトタン屋根だが、もともと茅葺(かやぶき)の大きな総二階の木造民家だ。福島県浪江町の山あいに集落が点在する津島地区。2013年3月11日の福島第一原発事故まで町役場津島支所や商店街、診療所などが連なった下津島の一角、旧富岡街道(国道114号)に面して松本屋はある。 

原発事故後の津島地区は、高い放射線量のため約450世帯、1400人の全住民が避難生活に追われて無人となり、国から帰還困難区域(許可なく立ち入り禁止)に指定された。家屋や店、施設の入り口は鉄のバリケードで塞がれて、草生し朽ちゆく廃屋状態になっていた。(記事参照 原発事故から11年の帰還困難区域・浪江町津島「ふるさとを返せ」住民たちの終わらぬ訴え |TOHOKU360) 

原発事故前の津島地区で人のにぎわいの場だった松本屋=2024年4月3日、福島県浪江町(筆者撮影)

松本屋を筆者が知ったのは2021年7月。津島の住民約630人が原発事故への国、東電の責任の明確化、地区全域の除染と事故前の環境の回復、住民への慰謝料を求めて15年9月、「ふるさとを返せ」裁判の名で福島地裁郡山支部に提訴した。その判決(22年7月に原告勝訴)の1年前に、原告団の住民らに同行し初めて津島を訪ねた折だった。原告団長の今野秀則さん(76)が松本屋の家主で、隣に白壁の蔵、裏にまだ新しい外観の自宅もある。「いつも、来訪や視察の人に上がってもらうんだ」と鍵を開け、玄関に面した広間でおにぎりなどの昼食を共にしながら話をしてくれた。 

街道のにぎわい伝える旅館  

今野さんによると、本家は地元で約20代続く旧家で、隣の葛尾村出身の曽祖父が明治中頃、津島・葛尾組合村の職員となって津島に住んで今野家に婿入り、分家した。「直に伝え聞いていないが、曽祖父か祖父が明治の終わりか、大正初めに旅館を開業した。松本屋の名は曽祖父の旧姓を採った」と今野さん。 

津島は福島市に通じる富岡街道あり、車のない時代は浪江町中心部から歩いて1日の中継地だった。松本屋のすぐ向かいにあった村役場(1956年、浪江町に合併後は役場支所)の公用客や、葉タバコを収納する専売公社や営林局の職員、土木工事の関係者、家々を巡る置き薬の薬屋、行商人、渓流の釣り人ら、大勢の客が松本屋に逗留した。多い時で年に約3500人が泊まったという。 

「客の膳には必ず、『ふきいり』(フキの塩漬けをしょうゆ、砂糖で味付けし油いためした伝統食)」など山菜の料理が載った。近隣同士で四季の幸をもらい、お返しし、それも津島の暮らしの絆だった」と今野さんは語った。 

昔は養蚕も行われた農家の造りという旅館の中は、柱や梁、天井や戸、床板も歴史がにじむ濃い飴色に光り、大きな仏壇が置かれた和室には今野家代々の人々の肖像が掲げられていた。無言で見上げた今野さんの表情が忘れられない。 

松本屋の歴史を担った先祖の遺影を見上げる今野秀則さん=2021年7月19日(筆者撮影)

姿を消した家々、連なる更地 

その時と比べ、現在の津島地区の風景は様変わりした。昨年3月末、下津島を中心に国道114号沿いの細長いエリア163㌶が復興庁から「復興拠点」に指定され、集中除染とともに「避難指示解除」が宣言された。道路はきれいに拡幅され、新しい津島支所が併設の「つしま活性化センター」(住民施設)と町営住宅10棟の並ぶ一角が、復興拠点の中心地として整備された。 

エリア内では「帰還困難区域」の表示板やバリケードがなくなり、自由な立ち入り、居住ができるようになったが、現実には、東京・山手線の内側に等しい面積がある津島地区全体の1.6%に過ぎず、改築した家や町営住宅に住み始めた住民はまだわずか。除染された田畑も出荷制限解除のための作付け試験を要する段階だ。 

目に付くのは、住民たちが避難している間に取り残され、草に埋もれたり、朽ちかけたりしていた家々の多くが消えて、砂利が敷き詰められた更地に変っている景色。跡には「除染済」「整理番号○○○○」の札が立つ。復興拠点のエリアの外にも、幹線道路沿いに更地は連なり、また点在している。宅地だけでなく、その周囲にも、土を剥いだ除染作業の跡は広がっている。

「復興拠点」に開所した新しい津島支所と併設の「ふるさと活性化センター」=2024年4月3日(筆者撮影)

やむを得ず「解体」を選択 

下津島の復興拠点エリアから国道を東に約13㌔離れた昼曽根地区。「私の家は去年の9月から12月まで掛かって業者に解体された」と佐々木やす子さん(69)は話す。原告団のメンバーで、中通りの大玉村に避難先の家を建てて暮らす。原発事故が起きた13年の2月と8月に亡くなった夫憲治さん(58)、元自衛隊員の次男信治さん(22)の眠る佐々木家の墓が自宅裏にあり、避難中も毎月欠かさず、家と古里の様子を見ながら墓守りに通ってきた。 

佐々木さんの自宅も周囲の家も、砂利の更地になった。国が原発事故被災地の市町村で実施している「際(きわ)除染」という新しい制度で、幹線道路の両側20メートルの範囲で家屋を解体、除染する。しかし家屋の解体には、復興拠点内外を問わず、住民が申請すれば国費で解体、申請しなければ自己負担―という条件を突き付けられた。津島では、建坪が大きく、作業小屋など棟数も多い農家が多い。自費ならば一千万円を超える解体費用に悩んだ末、解体を申請した住民もいた。 

こうした住民個別の判断を国が迫ったのは、原告団が求める津島の環境回復(山林も含めた全区域除染)に応じず、帰還困難区域というふるさとの現状に「幕引き」し、仲間を分断しようという意図があるのでは、と住民たちは感じたという。 

 横浜で生まれ、結婚して津島を第二のふるさとにした佐々木さんは、異郷者の自分を温かく受け入れ、共に暮らす喜びを分かち合った仲間とのつながりを何よりも大切にしてきた。それゆえ「裁判で、ふるさとを取り戻したい」。家族との愛着ある家は避難中、動物にひどく荒らされて、解体はやむを得ぬ選択だったという。「でも、なくなる前の家の姿を知人にドローン映像に記録してもらった。千葉で暮らす長男がいつか帰って農業をやりたいそうだ。小さな家でいい、必ずつなぎたい」 

解体され更地となった、昼曽根地区の自宅跡に立つ佐々木やす子さん=2024年4月3日(筆者撮影)

「残す」と法廷の弁論で決心

今野さんも大玉村に避難先の家を建てて暮らしながら、22年9月から仙台高裁で国、東電を相手取った控訴審を原告団長として闘っている。3月末に自宅を訪ね、津島の松本屋旅館の行く末について難しい問いをさせてもらった。今月1日が、「解体するか、残すのか」の選択と、国への回答の期限になっていたからだ。「壊す、という決断はできなかった。今は残すことにした」と今野さんは語った。偶然にも東日本大震災と原発事故から13年に当たる先月11日が、控訴審の8回目の開廷日に当たり、今野さんが意見陳述に立った。「そこで心が決まった」という。 

現在の自宅は、原発事故以来、5カ所目の避難先だという。福島県庁職員を退職し、区長として地域づくりに尽くしてきた今野さんは、難民のように県内外に離散した同胞の再出発、津島の再生・復興に向けて、「津島地区原発事故の完全賠償を求める会」(14年11月)を経て結成された「福島原発事故津島被害者原告団」(15年5月)の原告団長に推された。その心境を、法廷で次のように訴えた。 

地域社会を丸ごと奪われ避難生活を強いられる理不尽な事態を招いた国、東電の責任を質し、ふるさと原状回復を求めるのは当然のことと、覚悟して決断し提訴に踏み切ったのです

名ばかりの「復興拠点」の外で、津島地区の面積の98.4%は帰還困難区域のままで、ふるさと全体をどのように再生するか、住民が帰還できるか―の将来計画を国は示していない。今も被害は深刻化、拡大している、と今野さんはさらに訴えた。 

事故後既に13年が経過し、管理が行き届かない家や庭はやぶと樹木に埋もれ、田畑はうっそうと茂る林、森と化してしまいました。家屋は極度に傷み、害獣に侵入されて足の踏み場もない状況のため(中略)多くの家屋が解体撤去されました。住民は、難題も続いた思い出の詰まった家、一家団欒の何よりも大切な家を、迷い、悩みながら、断腸の思いで解体撤去を決断しているのです>

そして、松本屋への思いも語った。あまりに残酷な決断を国は強いている、と。 

私で4代目となる家は、私につながる一族の、地域社会の人びととの交流の記憶が染みついています。今年喜寿を迎える私に残された時間は長くありません。残せば、いずれ子どもや孫に負担を強いることとなります。夜、目覚めそのことを考えると、再び眠りに就くまで思い悩みます。夢も見ます。翌日起きてから、ふるさとのあれこれや家の事を見た夢が断片的に蘇り、焦燥感に駆られます。解体撤去の申込期限はこの4月1日です。それ以降は自己負担での対応を強いられます。原発事故はこのような理不尽を強いるのです

いまだ津島地区の98.5%を占める、立ち入り禁止の帰還困難区域=2024年4月3日(筆者撮影)

絆をつなぎ直す場所にこそ 

「建てて約130年。壁がない造りの家屋は、長い間にねじれ、震災の後、2度の福島県沖地震の傷みもある。この13年間、手入れもできなかった。家族からは『壊していいんじゃないか』とも言われたよ。これから、どこまで直せるか」と、今野さんは打ち明けた。 

新しい役場支所と活性化センター以外、現状で何もないに等しい津島地区で、これから必要なものとは?ばらばらになった住民の思いを「ふるさとを返せ」裁判はつないでいる。その先にあるものは、再び、地元の津島に人が集える場ではないか。かつて大勢の旅人を迎え入れ、休ませる宿だった松本屋が、もう宿ではなく、住民を再びふるさとに集わせ、心を癒し、絆をつなぎ直す場所に。行政も外部の民間団体もつくれないものであり、それほどふさわしい未来はないのではないか。 

*本稿で紹介した今野秀則さん、佐々木やす子さんら津島の住民たちが、ふるさとと原発事故を語る映画『津島―福島は語る・第二章―』(土井敏邦監督)が全国各地で上映されている。 

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