2024年の元日、新たな震災が能登半島を襲い、多くの命と生活の場を奪った。東北の風土と通じる自然、古い町や集落、住民の声に、13年前の東日本大震災で経験した苦難をよみがえらせた人も多いのでは。あれから3カ月、私たちに何ができるのか?それには、表層を切り取ったニュースからは見えない、人の暮らしと歴史を知り、生業の再生を支えることが大切―と民俗研究家の結城登美雄さん(78)=仙台市=は語る。東北の農山漁村をくまなく歩き、地元の暮らしに寄り添う「地元学」を提唱してきた結城さんに話を聴いた。前後編でお伝えしたい。 (聴き手・ローカルジャーナリスト 寺島英弥)
「食べる」ことが生きる原点に
―結城さんは、東北から能登の震災をどう見ておられますか?
まず、地震、津波を自然災害ととらえれば、人間は自然と向き合うところで生きてきた。東北のような北国では、寒さで餓死者もいっぱい出た。その試練にどう向き合ったか。人が発揮できたものは家族の力、地域の力だった。「人口減少で地域は消滅する」とか永田町、霞が関は言うが、現場に入ったことがあるのだろうか。
僕は1945年に旧満州の奉天で生まれた。厳しい自然との闘いから、開拓に追われた人々がたくさんいた。翌年5月に引き揚げ、お袋の実家がある山形県の田代(大江町)という山の9戸の村に帰った。冬は3㍍の雪、バス停まで歩いて3時間半という所だ。引き揚げ船は餓死者が出るほどひもじく、田代の家で飯を食わせてもらった。
ぎりぎりで生きる村の人に負担を掛けられず、家族で町場に出て、父は仕立屋を始めた。4歳で栄養失調から右目をやられ、今もぼんやりしか見えない。小学5年の時、家族で仙台に出たが、動物小屋のような借家で電気もなく、僕は磁石でくぎや砂鉄を拾い、小銭でパンの耳を買って飢えをしのいだ。よく生きられたと思う。
―その体験が、結城さんの原点になったのですか。
実家の叔父は、昭和51(1976)年に村が解散して山を下りたが、田代でどんな暮らしがあったか、鉛筆で書きため、写真を撮っていた。僕は『おらだ村 田代』という記録集にまとめてあげた。村の歴史は1402年、出羽三山の修験者が泊まる所を建てたのが始まりだった。明治初め、日本には71314の村があり、平均で60~70戸、370人。今の大字に当たり、東北には6900の村があった。叔父の村はバス停まで歩いて3時間半掛かり、冬の雪は3㍍。そこで暮らしてきた人々がいた。そんな村々がなぜ何百年も生き延びたか。それは、人がお互いに支え合って生きてきたからだ。
田代の叔父が昭和51(1976)年、村を解散して山を下りることになった時、私は実家を買い取った。仙台で広告会社を始め、仕事は大きくなったが、いつも不安だった。それは、「金」の世界の危うさを知っていたからだ。「都市」という所がいつ終わるか分からない、という不安があった。田代は満州から帰った私を生かしてくれた。帰れる場所が欲しかった。通って田畑を耕し食べる物を作り、生きる力を積み上げた。私の生きる原点になり、懸命に食べること、「食」が原点になった。
浜の人々の海への感謝と「花暦」
―東日本大震災で津波の被災地になった三陸にも、海の村々がありますね。
昭和63(1988)年、知人から気仙沼に勉強会の講師に呼ばれ、人間の暮らしの場としての海に初めて触れた。(現在は石巻市)北上町に十三浜がある。リアス海岸に大室、小室、大指、小指などの浜が連なり、かつては小字の浜々がつくる一つの村だった。海の人は海の人で、支え合いも苦労も喜びの思いも共に味わってきた。
そこで出会った人に(旧十三浜漁協組合長だった)佐藤清吾さん(82)がいる。浜の女性たちの輪にいた奥さんを13年前の津波で亡くし、「怖いな」と思うくらいに変った。小さな村だからこそ、世の中や自然に対して立ち向かってゆく、翻弄されてたまるか、という誇りや意地があって、そういう人たちの心が伝わってきた。
小指には、大晦日に15年通ってきた。太陽が落ちると新年であり、暗くなる前の夕方4時、集落の人たちがお膳を持って港に集う。お船魂(ふなだま・漁船の守り神)様に献膳をするのだ。それぞれの船で親きょうだいが頭を下げ、互いの船にもお酒を献じ、手を合わせ、「頑張ろうぜ、来年も事故なく生きろよ」と言っている。「海があって、船があって、私がいる」というような毅然とした顔、顔…。命を懸けて海で生きる人たちの凛とした思いが伝わってきた。
―それは、震災後も変わらずに続いているのですか?
はい、続いているよ。海への感謝は変わらない。それから津波から2年目の春、浜の人たちが花を植えているのを見て、びっくりした。鑑賞で植えるのじゃない、畑をきれいに見せて喜ばれたいのでもない。この花が咲いたらカツオなどの漁の時期という「花暦」なんだ。自分の漁に合わせて花を植え、花暦をつくる。「ここで生きていくために、やらねばならぬもの」なんだ。同じように山の人たちも、季節の変化に対応して生きている。何か作業をしている人たちの後を追えば、都市のように「(値が)高い、安い」とか、お金しか価値の物差しがない場所ではなく、「生きる」という本当に大切なことを教えてくれるところだと教えてもらった。
巨大防潮堤とは違う「復興」の形
―気仙沼、石巻の雄勝町など、そんな三陸の浜に、国と県は東日本大震災の後、高さ10㍍近い城壁のような防潮堤を築きました。住民が去った地域もあります。
海が巨大な防潮堤で遮られ、集落の人々から海が見えなくなった。船も見えなくなった。出漁の時に「がんばれよ」と声を掛け、船から「おう!」と応えてきた人たちの関係、海と陸(おか)との関係、海に生きる人たちの心を断ち切ったと思う。沖から船で帰ってくる時の昔からの目印も、陸にはいっぱいあった。海で生きる人たちの目でとらえようとせず、(100年に1度の)津波から集落だけをガードすればよい、という役人の極めてイージーな判断だった。
―能登半島地震の後、石川県議会が「創造的復興」を全会一致で可決した、とのニュースがありました。神戸の震災以来、この言葉が、ゼロベースからの復興推進の旗印になった観も。「創造的な復興」「防災・減災の先進地」を掲げ、巨大防潮堤とともに厚さ10㍍を超える嵩上げ地造成を行った陸前高田市では、住民が戻らず、空地が広がる現実があります。能登でも同じことが繰り返されるのでは。
能登の輪島市に「白米(しろよね)千枚田」があるよね。実際は1004枚の棚田が連なっている。僕は何度も通って、田植えを終えた土地のおじさんらに話を聴き、1枚1枚、図面を取ってきた。「観光地で有名な」と都会のテレビなどは前置きするが、なんて薄っぺらな、と思う。白米千枚田はもともと棚田じゃなかった。
一番海べりは塩作りの場所だった。山から採った木を燃やして塩を作った。おそらく他の塩と競合したのか、平地のない能登で貴重なコメを作る田を拓き、輪島の朝市に運んだり、暮らしに必要なものと交換したりするようになった。一番小さいのは、たった三株の田んぼだ。土地と自然に合わせ、そこでできるものを作ったんだ。輪島の朝市だって、観光地じゃなく、必要なものを補い合う、生きるために支え合う場として生まれた。そういうところから、何が復興か、考えてほしいんだ。 (後編に続く)
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