震災から10年 「風評」との闘いに打ち克ったリンゴ農家 福島県新地町

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】東日本大震災の後、東北、とりわけ福島県の被災地は原発事故との「二重の災害」に苦しんだ。農水産業の生産者は根強い「風評」と闘わねばならなかった。それから10年。筆者が当時取材に通った同県新地町のリンゴ農園を再訪した。主力の「ふじ」は今年も赤く色づきながら、全国的な不作もあって望む品質を得られず、残念ながら直売の断念を決めた。「うまいリンゴを食べてほしいから」と来年に目を向ける農家の支えは、あの苦闘の時に得た地元客との信頼だった。

赤々と「ふじ」が育ったリンゴ園

宮城との県境にある福島県新地町。11月上旬の紅葉に染まった鹿狼山(429㍍)のふもと、1980年代に拓かれたリンゴ生産団地の一角に、「七印(しちじるし)」と白字で描かれた赤いリンゴの形の看板がある。10年前の東日本大震災の後、当時河北新報記者だった筆者が取材に通わせてもらった「バンビりんご七印園芸」の入り口だ。「器量は悪いげんちょ 中身はいいど~」という直売店舗の看板もそのままだ。

鹿狼山ろくに立つ「七印バンビりんご農園」の看板=2021年11月18日(筆者撮影)

園主の畠米七さんは59歳。日焼けし精悍だった顔にはメガネが載り、髪に白いものが目立つ。東日本大震災を経験した誰もが、あれから10年を過ごしたのだ。
今年のリンゴの収穫は10月に始まり、同月10日に店開き。「秋映(あきばえ)」、「トキ」に始まり、同月後半には「シナノスイート」、11月上旬の「秋茜」、「シナノゴールド」と続き、「どれも、『LINE』登録してもらったお客さんに告知し、直売日から100人くらい来てくれて、1日か2日で完売になりました」。

現在、リンゴ園の木々で赤々と育っているのは「ふじ」。取材中にも車でお客が訪れたが、「収穫できる12月中旬まで待ってください。いまは売り物のリンゴがない時期で」と畠さんは頭を下げた。前年の収穫後の手入れなど栽培技術上の模索の結果や、晩秋の季節外れの暖かさによる蜜入りの遅れもあり、今年は満足のいく収量には足りなさそうだ、という。

「LINE」で登録している得意客は、現在320人ほど。新地町のほか、近隣の相馬、南相馬両市が多く、宮城の山元町、亘理町、仙台市から買いに来る人もいる。「それが9割かな。一番大事なお客さん」と畠さん。「あのころは『風評』との闘いだったな。でも、それも今はなくなって、震災前に戻れた。夢のようだよ」

12月中旬に収穫予定の「ふじ」を見守る畠さん=2021年11月8日、福島県新地町(筆者撮影)

トラクターで廃棄の悲哀も     

畠さんを初めて取材したのは2011年の10月上旬。相馬市の実家に届いていた一通の手紙がきっかけだった。当時の筆者のブログ「余震の中で新聞を作る」から振り返ると―。

<東日本大震災のお見舞いを申し上げます。住宅の損壊、避難生活、けが、ご家族、ご親せきのご逝去。お慰めの言葉もありません。大変な時にとは思いましたが、たくさんの方の要望、励ましの言葉、支援金、支援物資などをいただき、一時は廃業も考えましたが、続けてみることにしました>

得意客に送られた「覚悟の手紙」で、翌日に訪ねた畠さんは想像以上の厳しい苦境にあった。手紙は地元と首都圏の約350人に出されたという。『ふじ』の贈答予約の注文(それまで例年約1500件)が連日入って忙しい時期なのに、この年はぱったり止まっていた。50㌔余り南にある東京電力福島第一原発の事故が同年3月に起き、その風評のせいだった。

山沿いのリンゴ園は津波被災地から遠かったが、一家は避難した。父母は故郷福島市に、畠さんは妻、2人の子どもとかつての研修先の長野県へ。暗中模索の後、新地町に戻って、枝の剪定を始めたのは2週間後だった。福島の産品に広がった風評に立ち向かい、安全な食と農業の認証団体、日本GAP協会(東京)の検査を受けて問題なしとの結果を得た。それからリンゴ作りの現場の実況報告や生産者の思いをツイッター、ブログで発信し続けた。

当時の厳しい風評への畠さんの苦しい思いが、筆者はノートに次のように記録していた。「子どもの健康を守りたいという気持ちは、われわれ農家だって同じ。そのために科学的な基準が設けられており、それをクリアしようと毎日努力をしている。ところが、なぜ、いつのまに『福島』や『東北』が、安全か否かの基準にされてしまっているのか」

筆者は新聞記事でリンゴ農家の苦闘を伝え、一時、注文が増えたというが、津波や原発事故で住民が避難した南相馬などのお客の減少が響いていた。そこで畠さんは、父親と栽培を始めたころのようにトラックにリンゴを積んで、各地の仮設住宅も回った。しかし、売れ残り軟らかくなったリンゴも大量に出て、トラクターで廃棄するという悲哀も味わった。

誠実な努力、戻った地元客

「あの年は4割が売れ残り、完全に(生産農家として)終わってしまうかと思い、途方に暮れた」と、10年後の畠さんは振り返った。長野など新天地への移住を家族で話し合ったり、廃業して別の仕事を探すことも一時は考えたりもしたという。それでも、「支えてくれたのは地元のお客さんたち。風評があることも知った上で、私の取り組みを信頼して買いに来てくれ、『ここに残って、うまいリンゴを作り続けてくれ』と励まし続けてくれた」。

風評の影響がなくなった、と感じられたのは震災から5年を数えたころ。ネット販売の会社と大きな取引をしていて、契約を切られ、立ち行かなくなった同業者もいた。畠さんも『ゼロ』に近い苦境となったが、畠さんは翌春、350アール(当時)のリンゴ畑の一本一本を高圧洗浄し、万が一にも地表から放射性物質が根に吸収されぬような土壌改良剤を散布し、リンゴから「検出なし」を示すデータも得て、その誠実な努力をお客に伝え続けた。

いったん離れた地元の得意客も「あのころは申し訳なかったが、また買いに来たよ」と戻ってきた。避難先から帰ってくる人たちも増えた。「東京の福島産品のアンテナショップに出品の誘いもあったけれど、一度も出さなかったよ。そんな必要はなかったから」

すべては人の縁と、いま感じているという。一昨年10月、東北南部を中心に大水害をもたらした豪雨災害。2度も川の氾濫に襲われた相馬市では、大規模な断水も発生した。「うちには井戸がある。困っていそうなお客さんに連絡をし、水を汲みに来てもらった。お互い様なんだもの」「そのおかげで、いかに良いリンゴを育て、たくさん採るか―に集中できる。幸せですよ」

直売の店に今も飾り続ける、学生たちの応援の寄せ書き(筆者撮影)

<頑張れ 七印農園><おいしいリンゴをありがとう!>
こんなメッセージと元気な若者の写真でいっぱいの大きな寄せ書きが、畠さんの直売店に貼られている。千葉県からボランティアにやって来た明海大学の学生たちが贈ってくれた。筆者は震災の翌年夏の取材で目にしており、懐かしく眺めた。

「愛称・クマ先生に引率されたゼミが応援に通ってくれた。皆、いまごろ立派な社会人になって、子どももいる年齢だろう。インドネシアで日本語を教える仕事に就いた人もいて、その後もつながってくれたよ。ここに貼ったまま、いつも眺めて励みにしているんだ」

「人生には『絶体絶命』の時が必ず一度はある。でも、何とかなるよ、と若い人たちには経験を伝えられる。海外の戦争とかどうしようもないことはあっても、諦めないで、と」

直売断念、でも来年がある

それから、ひと月。「バンビりんご七印園芸」のフェイスブックに思いがけぬ投稿が載った。

<15日以降に予定していた、りんごの販売は中止いたします。気象災害と自分の栽培技術の未熟さゆえ十分な収穫量を確保できなかったとともに今年は蜜入りも悪く販売を断念いたしました。お待ちになっていたお客様に心よりお詫び申し上げます>

驚いて畠さんに電話をしてみると「しょうがなかったんだ」と、意外にもさばさばとした声が返った。既に青森県津軽や長野県などの全国のリンゴ産地から「不作の年」というニュースは流れていた。「やはり11月中の高温続きは響いた。でも、その中で平年作の収穫をした人もいる。自分の足りない技術の模索には終わりがない。それを考えさせられた年だった」

蜜がたっぷりの「ふじ」を今年も楽しみに待っていた地元のお客さんは多かった。「私はすべてのリンゴを直売しており、だからこそ、培ってきた信頼に応えられないものは1個でも出せない」

実った「ふじ」は全部収穫し、値段の安い品を扱う業者に引き取られたという。「もう気持ちを切り替えて、来年のリンゴ作りのことを考えているよ。励ましの電話ももらった」

畠さんが苦境にあった当時、励ましをくれたのは地元のお客さんだった=2011年10月10日(筆者撮影)

苦境の時期、トラクターで大量のリンゴを潰した光景を思い出した筆者は安堵した。そして、震災の翌年早春、再起を期してリンゴの木のせん定を始めた畠さんが語った、「それでも今年よりも来年、もっといいものを作りたいのが農家だ」という言葉がよみがえった。

「それは変わらないよ。一年一年が、終わりのない模索。どんなに実っても『食べ物』扱いされなかった、あの頃とは違うもの」

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